この度の東日本大震災により被災された多くの皆様に心からお見舞いを申し上げます。
「環境の時代」を切り拓く真の「都市と地域の再生」をテーマに掲げる私達の法政大学エコ地域デザイン研究所にとっても、今回の大震災は、自分達の研究内容とも直接結びつく重要な問題を数多く突きつけました。特に、三陸海岸の港町・漁村の津波による大災害、首都圏の戦後埋立て地における液状化による甚大な被害などは、「水辺の都市」を対象に研究を続けてきた私達にとって、真剣に考えなければならない極めて大きな課題です。さらに、巨大なグローバルシティ東京に象徴されるような、大量なエネルギーを消費して破壊と建設を繰り返し、拡大成長を続けてきた我が国における従来の開発志向の強い都市づくりの在り方に根本的な見直しを迫るものであると考えます。
世界有数の災害国である日本においては、かつて人々は、測り知れない自然の力に対し畏怖の念をもちつつ、度重なる災害の経験から学び、知恵を発揮して、より安全で豊かな生活環境を築き上げてきました。今回被災した地域でも、条件のよい高い場所に古くから形成された街道沿いの町並みや象徴的存在である寺院・神社の被害は、一部が残念ながら倒壊したものの、大部分は壁の剥落など最小限に抑えられています。同時にまちや集落には、災害から守りまた復興にも重要な役割を果たす、しっかりとした地域社会の人間関係、コミュニティも培われました。
しかし、近代化の進展とともに、特に戦後の時代には、急発展を遂げるなか、日本社会の価値観が大きく変化し、技術力を過信し経済力に物言わせて、本来は危険性があるはずの海辺の低地や埋立て地、川の流域や丘陵の斜面にまで、無理な開発を行い、繁栄の時代を謳歌してきたかに見えます。しかし、それらの土地がいかに脆弱で、貴重な命やかけがえのない財産を失う危険を伴うものだったかを私達は思い知らされました。自然の脅威に対し人間は無力であることを痛感させられました。技術力や経済力だけでは絶対に太刀打ちできないことがよくわかりました。その自覚のもとに自然と謙虚に向き合い、環境と共生する知恵を発揮し、豊かな生活空間をつくり上げるという、日本人が本来身に付けてきた地域づくりの発想を取り戻す必要を強く感じます。現場知が蓄積したものが地域の歴史そのものなのです。それは私達、エコ地域デザイン研究所が様々な研究を通じて描き出そうとしている日本のまちづくり、地域づくりの基本原理でもあります。
そんな中、国の提唱する復興プランは、山を削って安全な高所へ移転させるという発想のもと、画一的な同じ方法でいっぺんに復興を実現しようとしているように見えますが、それだけでよいのでしょうか。今回の三陸海岸沿いの被災地のまちや集落は、地形も歴史もそれぞれ異なります。江戸時代、おそらく津波の危険を考え、この海沿いには港町は宮古、気仙沼、石巻と、他地域に比べその数は限られており、それぞれが安全を考えながら堤防を建設し、独自のまちを築き上げました。また数多くの小さい漁村が、人々の絆と海との繋がりを大切にして、災害と闘いながら地形、自然条件に見合った集落形成をしてきました。それでも襲う途方もない規模の災害に対しては、人や船が助かるような周到な避難の心得と建物などを容易に再建しうる、しなやかでサステイナブルな思考を本来持っていたはずです。長らく大津波を経験しない間に、その危機管理の暗黙知が忘れられがちだったのが残念です。
今回の津波では、ちょうど昼間の学校に通っていた時間帯だったことも幸いしましたが、避難訓練の行き届いていた港町・漁村のほとんどの小中学生は高台に逃げて無事でした。また、津波が16 メートルの高さの土地まで達し、6 割の建物が倒壊したにもかかわらず、死者が零だったまちがあったというのも示唆的です。
高台への移転は当然、先ず検討されるべき重要な方法でしょう。しかし、常にそれが万能とは考えられません。丘陵地の造成宅地に引き起こされる地滑りによる被害については、今回の大地震ばかりか、過去に遡って多く報告されており、移る場所の選定にも当然、慎重な判断が求められます。また、明治29年の「明治三陸大津波」の後、困難を克服して高所への移転を実現しながらも、その後次第に漁師達が海に近い低地に戻り、昭和8年の「昭和三陸大津波」で再び被災した家族が多かった事実がある一方で、その昭和の津波の後に高所に移転したにもかかわらず、今回の大津波でやはり呑み込まれてしまった集落もあります。そう考えると、港町、漁村の一つ一つについて、地形・自然条件の細やかな特質を理解し、過去の高所移転の挫折なども含む個々の歴史的背景や生業・経済活動、コミュニティの在り方などの社会的事情をよく知った上で、復興の方法を地元の意向を最大限に尊重しながら決めていくことが重要だということがよくわかります。
ここで「地域の歴史」と言っても、具体的に何をさすのかが問題となります。近世の江戸時代だけを評価し美化するのも地域の現実を見誤っています。私達は、明治から昭和の戦前に至る段階で、住民の要請のもとに危険性を自覚しながらも低地を選んで住み、生活の場と人間関係を形成し続けてきた営みの集積も、ひとつの「地域の歴史」と捉えるべきだと考えます。たとえ低地であっても、人命を第一に考え、一方でまちや建物の再起を容易にする思考、つまりアジア的とも言える日本にも共通する、逞しくしなやかな危機管理の手法と考え方こそを今、取り戻すべきだと思います。自然の脅威から生命を守るのに、力ずくで対処する西洋近代的な技術のみに依存するようになった体質そのものが大きな問題だったとも言えます。
そのような発想に立ち、地域の人々の土地への愛着、誇り、海への執着も考慮に入れ、コミュニティの絆を大切にして、安全を考えた復興のプランをつくる必要があると思います。復興ビジョンとは単なる青写真のことではなく、地域が潜在的にもつ再生力を存分に引き出すことにあると言えるでしょう。私達のエコ地域デザイン研究所は、<歴史>と<エコロジー>にもとづく地域づくりを提唱してきました。この度の震災からの復興にあたっても、その考え方がまず基本となるべきだと考えます。歴史的な地域形成という観点に立ち、地形・風土・歴史に根ざした構想をもって、まちや集落の再生を実現しなければならないのです。こうして土地の力を引き出し、防災の視点にも立ちながら、魅力ある地域へ再生するためのガイドラインを示すことが重要であると私達は考えています。その課題をエコ地域デザイン研究所(エコ研)も担っていきたいと思います。
一方、首都圏でも、この度の大地震が引き起こした液状化現象による被害が甚大だったことが明らかになりつつあります。特に、東京湾岸の埋立て地における液状化の被害は世界最大級のものでしょう。特に、高度成長期の1960年代、豊かな漁場を潰して工業開発、住宅地開発のために大規模に急いで造成した埋立て地に被害が集中しています。浦安の埋立て地につくられた人気の高級住宅地もライフラインが長い期間、途絶する大きな被害を受け、建物にも被害が多く生じました。ところが、すぐ内陸に古くから存在する境川に沿った元漁師町の伝統的な家屋群の被害は少なく、場所によってこのような歴然たる差が現われたことも目を引きます。
内陸部の利根川周辺の香取市や我孫子市でも液状化の被害が多く出ましたが、いずれも元々の水田や沼地を埋め立てた地域に限られています。それに対し、立地の条件を選び、長い時間をかけて安定した生活空間を築いてきた歴史のある場所は、小さな被害にとどまり、実は災害にも強いということが実証されつつあります。
日本は、とりわけ戦後、市街地を無秩序に広げ、田園の自然や農地を潰してきました。人口が爆発的に増えた20 世紀後半の都市化の時代には、確かに、宅地を「不適地」につくらざるを得なかったのも事実です。しかし、成熟社会を迎えた今、すでに人口減少の時代に突入しており、市街地が縮小に向かうことが予測されています。となれば、自然条件を十分考慮する時代につくられた、歴史のある風土にマッチした安全で安心な場所を中心に、コンパクトに都市や地域をつくり直していくことが重要になるものと考えられます。高齢化社会にとっても、そうしたコンパクトで省エネを実行しやすい地域の生活空間がより求められるはずです。
市街地を拡散的に広げる発想を止め、「歴史・エコ廻廊」とエコ研が命名する歴史と緑・水が一体となった地域の魅力ある空間軸を新たな都市のソフトなインフラとして育てていく発想が、防災の観点からもますます重要になるものと思います。法政大学エコ地域デザイン研究所は、まちと人々の生活が本来いかにあるべきか、復興のためのビジョンを含めて提案を継続的に行い、社会に貢献し続けることをここに表明いたします。
なお、私達エコ研も参画している法政大学サステイナビリティ研究教育機構(2009 年発足)の中に、この度「震災問題研究のタスクホース」を立ち上げることになりました。3つのサブチームからなり、<テーマ1>では震災を切掛けに明らかになった政治経済側面の諸問題、<テーマ2>ではエコ研の分野である都市・地域再生の問題、そして<テーマ3>では、今回の原発事故によって露呈された諸問題と我が国における今後のエネルギー問題に関する研究活動が行われる予定であることを付記しておきます。
2011年5月4日
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