「東京水上倶楽部の歴史と外濠の水辺環境」
カナルカフェオーナー 羽生裕子
今回は牛込濠で生まれ育ち、その環境の変化を見聞きしてこられ、現在はカナルカフェでオーナーをされている羽生氏に外濠の移り変わりを中心にお話を伺った。
羽生氏のご祖父が1918年にボート場として造ったのがカナルカフェのはじまり。ご祖父は島根の沖ノ島の出身で、沖に多くの山林を所有し郵便局を運営していた。その後「日本国をどうするか」と大志を抱き代議士となり、自民党の前身政友会のメンバーで活躍した。その時期に後藤新平氏(初代東京市長)と出会い、交友を深め、二人でこの国の未来について語り合ったそうだ。そのひとつに、その当時の都民の骨格が非常に欧米人に比べて貧弱であり、有事の際に備えて骨格形成を含めいろんな事を考えなければと、話し合った折にボートがいいとなり、外堀の今現在法政大学の前の外堀と千鳥淵の二箇所にボート場を造る話になった。その当時周辺は井戸と塀しか残らないというような状態だったが、島根のほうから船大工さんを呼び今現在カナルカフェであり、当時実家がある一帯に、ボート場を設けたのだ。
オープン当初はレクリエーション施設があまり東京にはなく、大変な賑わいを博し、それはボートに乗る列が一時間待ちというような形までなっていた。
お話は外濠の時代の流れの中で変化していった環境について、ふれられていった。
主に都市計画と実際の感覚の違いによって変わっていく現・カナルカフェの周辺について。
羽生氏が小学校の低学年から半ばまでは水が澄んでいた(オープン当初から、その数年)そこにはうなぎ、ザリガニ、えび、タニシ、蛍など色々なものが生息していて、また、とったものをそのまま食べるという事を東京のど真ん中でしていた。しかし、様々なことにより、そのような自然環境は変わっていった。小学校の高学年の頃には、藻がたくさん生えていてボートのオールに藻がからみ、ちぎれた藻が浮かぶというよう事から、撤去作業していて、それは区のほうでも撤去作業手伝っていたのだが、ある日、区が大量のそう魚を放し、それにより一気に濠の藻が無くなり、汚染が始まったのだ。また彼岸花が密集して土手一面に咲いていたが区によって、ある日一挙に刈りとられたしまったという。
また牛込見附の石垣の近くに巨大な柳があり、江戸時代からあったであろうといわれていた大きな柳だったが、羽生氏が小学5,6年の時にこれもまた切られていたという。
現在に至るまでに変わってしまったものは勿論、自然環境だけではなく、価値ある建築物にも及ぶ。今、郵便局が建つところに逓信博物館というものがあった。それは明治・大正の立派な建造物で、それも今は姿がなく、富士見町教会という古い美しい教会であったが時価が高騰し、教会だけの経費で持ちこたえることが出来ず、一階を銀行に貸し、立て直すことになり建物は無くなった。
都市計画が直接大きく濠に影響したことは、1984年には今現在の飯田橋の駅の駅ビルが出来、隣の堀が埋め立てられた。多くの人が反対運動をしたが、飯田橋の駅の堀も最後には埋め立てられたという。また地下鉄工事が入る前までは十箇所以上の湧き水があって、この水の鮮度が保たれていた。この工事の際に地下鉄を通すことによってそちらのほうに水が流れてしまい、それらの水はきれいな水にして濠の方に戻してくれるはずであったが、そうはならなかったそうだ。
これらの変遷を経てもなお残った外濠の価値ある環境も、存在する。
牛込濠には何箇所か今でも工事の影響を受けなかった湧き水がある。その周りには咲く桜は今から40年程前にライオンズクラブが桜を寄贈したもので、いまは有名な桜並木になっている。外堀、内堀には見付があり場内に入るという、今も城跡の大きな門のついていた石垣だけは牛込見附という交差点に残っている。
東京水上クラブは生まれてから、このように様々に移り変わっていく環境と共に、そこにあり続けてきた。東京水上クラブとしても実際にボートに乗る人が激減してきたが、ヘラブナをたくさん放しヘラブナ釣りなどを企画したりなどしたものの、反応が薄かった。しかし多くの人に、まだ多く美しい自然が残る、この場所を見てもらいたいこともありカナルカフェという名前をつけ、レストランをオープンしたのが17年前だ。
羽生氏はレストランをオープンしたことにより、多くの人が水辺を楽しんでもらえている実感を得た。レストランをオープンして多くの方が集まり、多くの人と出会い、子供の頃育った外堀環境をまた元に戻せるのではないかという手ごたえを感じている。
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[外濠から法政大学を望む] |
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[創業当時のカナルカフェの建物] |
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[今では珍しい5人乗りのボート] |
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[1920年代の外濠の風景] |
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[カナルカフェから見た外掘通り] |
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「イギリス都心水辺再生巡礼 −英国諸都市の水辺再生の現在−」
エコ地域デザイン研究所兼担研究員 石神隆
イギリスにおける工業都市、商業都市を中心に水辺再生の現在をみていく。
ロンドンから西に2時間ほどの距離にあるブリストルは、今、ウォーターフロントの街として賑わいを見せている。ブリストルはかつて新大陸貿易により、英国でも1,2を争う繁栄を謳歌した港町であった。1809年に、中心部を流れるエイボン川の一部を塞き止めることによりフローティングハーバー、シティドックを造った。しかし、その後、貨物が徐々に、海側に設けられたドックに移行、シティドッグは廃れていった。
1980年代末から、ドック跡地では断片的な再開発が行われていたが、目立った都市環境の改善はみられなかった。しかし、1988年にロイズ信託貯蓄銀行がロンドンからブリストルに移転、中心部のウォーターフロントに全英本部を建設したことが、水辺再生全体への大きな転機となった。90年代に入るとクレストニコルソン社などにより、ウォーターフロントのオフィス開発が進展、また、ウォーターフロント沿いには様々なデザインの住宅が立ち並んできた。倉庫や工場などが続々とオフィスやレストランにコンバージョン、今では昼に夜に賑わいをみせている。これからも、産業博物館がファサードを保存した形での建て替えが計画されるなど、都心部でいくつかの水辺再生プロジェクトが進行している。
産業的には、地域全体では、エアバスの英国本社などハイテク企業が立地し、国防省の全英調達本部も当地に移転、また、繁栄の一指標でもある金融保険産業も活発である。さらに、近年では、芸術メディア活動のためのいくつかのミレニアムプロジェクトや、BBCブリストル放送局の積極的な番組制作などが功を奏し、都市がメディアシティとして新しい形で活気を帯びている。放送局から派生したプロダクションや、アニメのベンチャーなども盛んである。ブリストルの魅力的なウォーターフロント再生は、人材を全国から吸引する一つの仕掛けともなっている。
ブリストル周辺の都市をみると、グロスター、カーディフ、スウォンジーなどにおいてもウォーターフロント開発が行われている。しかし、カーディフのように、衰退した工業港の転換として大規模な開発を行ったが、うまく機能しているとは言い難い都市もある。
西側の産業都市をみていく。リヴァプールでは倉庫のコンバージョンが積極的に行われ、博物館、レストランなどに姿を変えており、世界遺産、欧州文化首都指定を弾みとして、現在、大変活発にウォーターフロント再開発が進められている。スコットランドのグラスゴーでは、クライド川に面する昔の造船所跡地などに、ショッピングセンター、科学技術館、展示場、オフィス、住宅などが設けられている。北アイルランドのベルファストでは重工業地帯が廃れ、再開発により催事場、住宅などがウォーターフロントに設けられた。
内陸および東側の工業都市等をみていく。バーミンガムは運河が集積する都市で、中心部のコンベンションセンターや美術館と運河が連接し、魅力的な水辺空間を創出している。他にもマンチェスター、リーズ、シェフィールドなどの内陸型工業都市でも、それぞれ運河を中心としたウォーターフロント再生が盛んである。また、東側のニューカッスル、ハルなどにおいてもウォーターフロント開発が活発に行われているが、全ての都市で魅力的に成功しているというわけでは必ずしもいえない。ロンドンでは、ドックランド再開発が東部を残し概成、また、市内における運河周辺の再生も進展している。
このようにイギリスの工業都市、商業都市を全般にみていくと、いずれもウォーターフロントにおいて積極的な再開発が行われている。そのなかで、かつての商業港から移行、段階的なウォーターフロント再開発をしていった都市は、調和的な賑わいをみせている。一方、工業港などの衰退に伴い急速なクリアランス型の開発が行われたウォーターフロントは、いまひとつ人気(ひとけ)が無く寂しいところも多い。つまり、経済や技術、嗜好の変化などに応じて、時間を追う形での漸進型の進化的な再生、柔軟で一つ一つの小さな対応を蓄積した開発の方が、結果的に魅力的な都市空間を生み出すことに成功しているといえる。
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[ブリストル、パブやレストランが並ぶ都心の水辺] |
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[ブリストル、かつてのシティドックの繁栄1868年(上の写真と同じ場所)] |
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[カーディフ、ウォーターフロント再開発] |
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[リヴァプール、アルバートドック周辺] |
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[グラスゴー、再開発の進んだクライド川のウォーターフロント]
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[ラスゴー、かつて造船所が並んだクライド川 1910年代]
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[ロンドン、ドックランド・キャナリーワーフのオフィスビル群]
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[ロンドン、パディントンベイスンの新オフィスビル]
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