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東京都心プロジェクト・地域マネジメントプロジェクト合同研究会
「川崎臨海部の環境再生」

日時:2007年2月21日18:00〜21:00
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス80年館会議室

 

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講師:除本理史(東京経済大学教授)
テーマ:「川崎臨海部の環境再生−その背景と課題」

 川崎臨海部では戦後初期までノリの養殖(大師のり)が行われていた。高度経済成長期に入り、大気汚染公害がおきる。固定発生源である工場と移動発生源である自動車による。1970年ごろから自動車の汚染が酷く、現在はNOxが問題である。内部では農地が減少し、農業用水である二ヶ領用水は1960年ごろには消滅する。1982年に川崎公害訴訟が起こり、1996年に被告企業と和解する。この頃、川崎環境プロジェクト21(KEP21)を立ち上げ(代表:永井進先生)環境再生を通じて、すみよいまちづくりとなることが本当の解決であるとして環境再生の研究に取り組むこととなる。
 水辺再生を含む環境再生の動向としては、公害地域の環境再生(大坂・西淀川、川崎臨海部、倉敷・水島、尼崎南部など)、三番瀬での干潟再生事業などの自然再生がある。現在の環境再生に欠けている理念は、足元(地域)がサスティナブルでなければならないということである。現在の環境政策には2つの柱がある。一つは1960年代までの公害規制・防止であり、現在は環境負荷低減へ変ってきている。二つ目はリサイクル法制などの資源循環である。これらは今後発生・累積する環境被害を食い止めることは出来るが、これまでの被害ストックへの対策ではない。第3の柱として、「環境被害ストック」への対策=環境再生が必要である。環境再生の前提としては環境負荷の削減であり、環境被害ストックの累積予防であり、これ以上被害を出さないということである。課題としては、被害者を救済すること、破壊された環境の再生、地域共同性・コミュニテイの再生、環境再生を通じた地域再生がある。川崎臨海部の課題は、(1)道路公害の根絶、(2)未認定患者の救済、(3)破壊された環境の再生、とくに水辺再生、(4)地域経済の活性化などがある。水辺再生の取り組みとしては、KEP21が発足し、連続講座の開催や市民や研究者を繋ぐ役割や、2003年には「かわさきの水辺再生市民提案をつくろう!」の講座では、既に1980年代前半から活動していた二ヶ領用水や多摩川の再生活動を行う市民団体と臨海部の市民運動を繋ぎ、住民のアイデアを集めたMAPを作成した。その中には二ヶ領用水の再生や干潟の再生などもある。
 川崎臨海部の地域的経済システムからみた水辺再生の障害は、(1)市民的関心の低さ、(2)公共インフラなど公共事業の舞台、(3)浚渫土砂、廃棄物による埋め立てがあり、それらが結果的に埋立地の沖合いへの拡大再生産という悪循環をもたらしたといえる。

報告者:尾崎寛直(東京経済大学講師)
テーマ:「川崎市民の水辺の原風景と環境市民運動」

 川崎は「川の先」ということで多摩川の先に位置し鶴見川、多摩川に挟まれた沖積低地である。北部から南部にかけ二ヶ領用水が流れている。多摩川から2箇所で取水しているので二ヶ領用水という。臨海部に工場が立地するにつれ中部の幸区あたりで地下パイプラインを通し工業地帯へ送られ農業用水から工業用水となり、現在は下流で下水に放流されている。南部の川崎区では用水はほとんど暗渠化しているが中原区や高津区など北部では今も開渠が多く憩いの場になっている。元々この地域は鶴見川、多摩川に挟まれた湿地帯であり、水辺に密着した生活があり文化があった。
 水辺の変化を文献や資料から分析すると4つに区分される。第1期が1870-1910年、湾岸の埋め立てが始まる前までの水資源・水面・水路の重要性増大期、第2期が1910-55年、水辺環境の変容・劣化期で湾岸の埋め立てが始まり工場が進出し、用水は工業用として供給される。第3期は1955-80年、水辺アメニティ消滅期で高度経済成長期で用水は消滅していく。第4期は1980年-で再生への胎動期で水辺回復の運動が起きる。
 川崎は東京、横浜に挟まれ開発圧力が強く、物流も盛んであった。水辺破壊も急速に進んだ。1971年には漁業権が放棄された。日本鋼管が製鉄の残さい放棄や航路浚渫の土砂で沖合いを埋め立てていった。南部と北部では条件も異なることから、南部は大気汚染が問題であり、北部は自然破壊が問題であった。
2003年に川崎市に長年住んでいる人に遊びを中心にヒアリングを行った。遊びの変化や環境の変化また個人史から地域の変貌を分析する為である。地形図や文献も収集した。
 60-70歳台の方の戦中戦後の子どもの頃の記憶は鮮明で、一時期水辺が回復した時期で原体験・原風景として現在の活動の原動力となっている。昭和20年ごろはまだ遠浅の海岸やノリの養殖場、海水浴場もあった。爆弾池は生き物も豊富で子どもの遊び場だった。これらの記憶を共有し、環境再生の方向性を示す資源として重要である。
 川崎は多摩川、二ヶ領用水が南北を繋いでいる。川崎の水辺環境をめぐる市民運動は先行して1980年代前半、北部の多摩川、二ヶ領用水の再生活動として始まった。多摩川の汚染や用水のどぶ川化があった。「市民の会」により用水を環境用水と位置づけ、市民や行政が参加しマスタープランを作成し市長へ提出した。多摩川流域のまちづくりとして流域の市民団体の連携が進んだ。90年の多摩川エコミュージアム構想は市民団体を繋ぎ、行政との協働による市民要求の政策化となった。市民参加の位置づけや行政との協働など97年の河川法改正にも影響を与えたといわれる。「参加」は市民の政策志向が成果として表れる条件である。これらの動きが南部にも波及しつつある。環境再生の共通基盤が生まれつつある。しかし、川崎市は基本的に臨海部の加工業開発志向を維持しており、産業政策に軸足をおき、環境再生にはない。「参加」も限定的。今、環境再生のマスタープランが必要である。

   

 

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