「イスタンブル−都市と水との歴史的関係性−」
イスタンブル工科大学建築学科助教授 Zeynep Kuban
イスタンブルはトルコにある水に囲まれた都市である。ボスポラス海峡を挟んでヨーロッパ側とアジア側に、さらにヨーロッパ側は金角湾を挟んで旧市街と新市街に水が都市をわけている。そしてその都市の発展は日常の生活と同じく水が根底にある。今回の講演では、水という視点からどのように都市の歴史を読み解いていけるのか、また、イスタンブルにおける水の意味とは何か、といった点に重点をおいてイスタンブルの歴史を建築、都市的な視点からお話いただいた。
イスタンブルの歴史はビザンチオンというギリシアの古代植民都市から始まる。ビザンチオンにはアクロポリスが築かれ、また頑強な市壁、巨大な教会堂(後のアヤソフィア)がつくられた。この時代、コンスタンティヌス帝が現在にも伝わる軸線を持つ都市構造を決め、またテオドシウス帝が南に2つの港を開き、軍や商業の目的で使用された。その一方で以前使われていた金角湾には造船所ができた。
10世紀にはいると、黒海へ行く人、アフリカから来る人、と様々な国から多くの商人が行き交う都市となっていた。そうした中で、9世紀以降イタリア商人は小さなイタリア人地区をつくっていった。金角湾を挟んで北のペラ地区のジェノヴァ、南のヴェネチアは競い合い、それは15世紀まで続いた。
15世紀になるとメフメット2世がイスタンブルを征服し、オスマン帝国の支配下に入った。ビザンチオンのアクロポリス跡に宮殿を建て、アジア側も都市の一部に組み込まれた。教会堂はミナレットがつくられ大モスク(アヤソフィア)となり、都市の象徴、人々の精神的支柱となった。スルタン自ら建てたモスクは海が見える丘の上に建てられ、それ以外のモスクのいくつかは海沿いに建てられそこからイスラム化が進むことになる。金角湾は以前からの造船所の流れを汲み工業地帯となっていた。
18世紀にはオスマン帝国が文化的鎖国をし、独自の文化を築いた。しかし19世紀に入ると西洋に人を派遣し、西洋の文化を受け入れ始めた。この時代はチューリップ時代と呼ばれる。金角湾沿いには西洋的宮殿が建てられ、技術的にも新たな運河がつくられる、飲み水を確保する、など変化が訪れる。そういった中で、ボスポラス海峡沿いには別荘が建てられるようになった。この別荘は船入れ口があり、木造2、3階建てのものが多く見られたが、その形態は多種多様であった。本格的に西洋化が始まると、大きな軍施設がまず建てられた。木造が石造になる、流通の中心がバザールから銀行になるなど変化がみられた。同時期に、金角湾に環境汚染が起こる、海沿いに駅がつくられる、アジア側にも別荘が建てられる、といった変化も起こっていた。
現代に入ると1971年にヨーロッパ側とアジア側に橋が架けられたことでアジア側にも発展の波が訪れ、アジア側、ボスポラス海峡沿いの別荘は定住用の住宅に使用形態が変化した。そして今、海沿いのホテル、大規模開発、違法建築といったものが景観を壊し、下水未完備により汚水が海に流されているのが現状である。しかし、車社会のなかでもフェリーはいまだ人の足を担っており、家から海の見えるいい景色が見える家の価値が高いなど海との関わりは今でも続いている。
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[Istanbul] |
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[Miniature Map
of Historical Istanbul 16 th Century Matra] |
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[Bridge
19th Century- W.H.Bartlett] |
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[Bridge
20th Century- Murad Sezer] |
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[Istanbul
old and new- Murad Sezer] |
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「イスタンブルにおける歩行者空間の現状」
昭和女子大学人間社会学部現代教養科専任講師 鶴田佳子
イスタンブルは環状線が走る道路網、海底トンネルを通る地下鉄とともに、海上交通が盛んに使われている。大型タンカー、大型客船も着く国際的港は新市街にあるが、こういった外から来る船以外にも定期船はカーフェリーも含め、市民の足として今も重要な役割を果たしている(01)。港は交易の中心として、重要な交通網として今も活躍しているのだ。そうした港町の船着場周辺に広場は、商業的に使われるだけでなく、各町の内部へのバスやタクシーの発着所として交通の基点となると同時に、釣り、露天商、レストランも並ぶ人々の憩いの場、楽しみの場となっている。イスタンブルにはグランドバザール、300以上の定期市、広場、歩行者天国など様々な歩行者空間が都市にある。こうした歩行者空間の活用の現状について紹介していただいた。
ガラタ橋のたもとは広場として近年整備されてきた。以前はよく見受けられた黒海から売りに来る商人や、露天商たちは条例により禁止されてしまったが、その一方でレストランが並ぶなど歩行者空間の拡大が進んでいる。また、店はガラタ橋の下層部に集められ、店の前は両側歩道になっている。上層では路面電車と人が通り、釣りを楽しむ人も見受けられる(02)。新市街のイスティクラル通りは路面電車のみ走る歩行者天国で、坂道になっており、斜面地をうまく使った気持ちのいいカフェがいくつもある。上ったところにあるタクシム広場では19世紀の建物の復活などといった動きも見られ、海へ向けてケーブルカーもつくられた。ボスポラス海峡沿い、ハドキョイの港周辺も整備が進んでいる。オルタキョイの広場はレストランが並び、土日にはアーティスティックなスペースを生み出し、オープンカフェがあるなど海沿いがとても整備されている(03)。これ以外にもアンティーク市や曜日市が行われる、地方物産展を港広場で行われるなど街の広場は様々な形で活用されている(04、05、06)。
また近年、屋上テラスを使って海や街の眺めを楽しむ、という傾向が見受けられるようになってきた。このようにイスタンブルは海に囲まれていることと同時に起伏に富んだ地形をしていることから、街から海を眺める、対岸の景色を眺めること、その逆の海から街を眺めることといったことは過去も今現在も変わらずイスタンブルにとって大切なことであるといえる。イスタンブルは歴史的にみると海上交易で発展してきた商都だが、港湾都市としての繁栄だけでなく、日常生活にとっても重要な水辺都市として現在も機能している。
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[01
旧市街の船着場(エミノニュ)] |
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[02
ガラタ橋] |
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[03 オルタキョイ(ボスポラス海峡沿い)] |
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[04
週末の露店の賑わい(オルタキョイ)] |
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[05 カラキョイの港前広場]
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[06 ウスキュダルの定期市(アジア側)]
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