「水辺の再生−フィレンツェとアルノ川」
ジャンカルロ・パーバ
歴史的古い時代には、アルノ川の流れはなく、2つの湖から湿地が出来ていた。その後の地質学的な変化を経て、アルノ川の流れと水面が形成された。歴史の中で、困難な形成過程を経たということで、水学的にも難しい問題を抱え、洪水にも悩まされていた。
フィレンツェは平野の中にアルノ川があり、高台の天辺には街道が通り、非常に戦略的に重要な場所であったためフィレンツェを繁栄させた。ローマ時代に歴史的な川が複雑に流れていたが、川をまっすぐに付け替えようとし、川沿いに鉄道も形成され、街道沿いに沢山の集落が建てられた。川は、都市と周辺の地域を文明化する重要な軸線として働いた。
レオナルド・ダ・ヴィンチは理想都市像を表し、フィレンツェとピサを結んでいるアルノ川の水の流れやシステムを変えて、自然の川から水をひいて水路を造り、合理的で安全で使いやすいように真中に付け替えるなど大胆な計画をした(図1)。洪水から守れるのと大規模な舟運が可能になり、内陸にありながら船が入ってくる港町にする筈であった。
またレオナルド・ダ・ヴィンチは、上に道路、下に船が通る運河のレベルという二重の構造になる理想都市の提案をした。
ローマ時代のフィレンツェの復元図から、最初は両側を結ぶのにボート用いて、次に木の橋が架かり、ポンテ・ヴェッキオが建設され、港の施設は部分的に舟運があったものの、活発に使いこなされてはなかったことがわかる。
ルネサンスの時代には、鳥瞰図からむしろ川が中世的な役割を示し、中心部が表、周辺部が裏の性質を持っている。中心部では、川が徐々に建築化し、のちに造形化してきた。
建築は古い時代から徐々に、川沿いに張り出すように完成し、川沿いにはフェスティバルで人々が集まり、橋のたもとは重要なスポットとなり、水の劇場を想定された(図2)。カッシーネ、パラッツォ・ピッティ、アルノ川は祭りで重要な3箇所であり、2つの橋の間では、染物屋と織物業者の2つの業界の職人たちが、パラッツォ・ピッティの中庭に水を張り、古代に行われていたように模擬会戦が行われた。
またポンテ・ヴェッキオは、簡単な橋から木の橋、立派な橋へと建替えられ、防御の仕組みとして機能し、店が出来、初めは内側に、次に外側に店が出来て発展した。ルネサンス期にはアルノ川沿いに、建築的に統一される垂直な軸が形成された(図3)。元々ポルティコがあり、建築が増築されアーケードを塞いでお店が入っていたが、近代にポルティコのある形が復元された。
第二次大戦で破壊された建造物の再建方法では、塔の部分を残し、テラス上に川に下りていく構想が提案された。しかし実現できず、実際は川に張り出して建物が建てられていった。破壊されたもう一つの橋は、元々の姿どおりにオリジナルを生かして復元された。
19世紀には川と都市の関係に変化し、堤防により都市から遠ざかった。経済的活動を結びついたのが水車である。水は上流から引っ張られ、建物を経て水車へ流れ、下に流れていくしくみである。水車から引っ張られて動力を生み出し、洋物工業と結びついた産業施設が産まれ、カッシーネの近辺では水を内側に引っ張り、水路の水を動力の水として活用された(図4)。
サン・ニコロの橋には護岸が出来、橋の2つのアーチを潰して、水と街の繋がりが、若干断絶されたが立派な3本道が出来た。カッシーネの軸が、広場がオープンスペースとなり、川が繋がってでき、フィレンツェで重要な場所となっている。1966年の洪水ではポンテ・ヴェッキオまで浸かってしまい、芸術作品もダメージを受けた。
アルノ川周辺では、数々の計画が練られ、ロジャースは余暇を楽しむ目的でアルノ川沿いを再構成する構想を提示した(図5)。2つのレベルをうまく使い分ける目的で、既存の階段に加えて、低い岸辺を有効に使うためにもう一個の階段を作るという構想だ。
ジャン・カルロは環境をよくするために、川と地区の関係を取り戻す計画で、すでに存在する緑地を補強、強化、整備し、さらに元からある緑地を繋げて、アルノ川沿いに伸びていく緑の公園をつくりだす計画案を出した。
また、アルノ川沿いに歩道を作り、菜園を設け、船着場を利用して船で動けるような計画が考えられている。
フィレンツェでは、大きな超高層を造ることや、大規模開発で水との関係を取り戻すという考えは全くなく、小さなリベンションで非常によく考えられた、質の高い計画を沢山つくっていくことで、環境的にエコロジカルで、安全で自然が戻ってくる場所を作り出し、人間が有効に使われる場所を生み出していくと考えている。
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[図1
都市図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)] |
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[図2 再建されたポンテ・アッレ・グラツィエと、19世紀のアルノ川沿いの道の建設初期のレナーイ地区(ファビオ・ボルボロトーニ)] |
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[図3
19世始めのアルノ川沿いの道の写真] |
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[図4
サン・ニコロの水車小屋(デ・クッピス、1800年代)] |
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[図5
アルノ川の川岸利用のプロジェクト、リチャード・ロジャース、1990年] |
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「ローマとテーヴェレ川:川辺都市の発展、その起源から現代まで」
マルコ・ポンピーリ
ローマにおける都市と川との関係を、19世紀にできた堤防についての問題を浮かび上がらせながら、歴史的な段階での視点から考える。
ローマの都市は、左岸(東側)を中心に発展し、右岸(西側)にはヴァチカンとサンタンジェロ対トラステヴェレという2つの核から構成されている。左岸は比較的初期に構造が形成され、軸が通り、幾何学的な構造であるのに対し、右岸は複雑な都市構造である。
1870年大きな水害がきっかけで水害から都市を守るための堤防が計画される。ローマの歴史は水害によっても特徴付けられ、建物や物理的環境への被害のみでなく、疫病などの被害も多かった。そこで、首都として水害から都市を確実に守る仕組みを構想する必要があったのである。
当初、蛇行するエヴェレ川の流れを変える案が挙がったが、実現したのは堤防がつくられる計画であった。堤防が建設される前は、都市と川との関係が自然なかたちであったが、つくられた後は都市と川との関係が大きくつくりかえられた。したがって堤防建設は妥協的解決法であるといわれ、現在でも批判の対象となることがある。しかしこれを評価するにあたり、異なった視点が必要であり、技術的なことを重視した解決法であったということを考えるべきである。当時、川の周りの風景を象徴的に表現し、ダイナミックに都市をつくるという考え方の時代であった。実際に堤防について歴史的研究をすることで、この壁がどのような背景で誕生したのかということを理解することができる。
古くから、ローマにとってテヴェレ川は船着場・港・都市を発達させる“都市の基盤”としての役割を担っていた。古代復元図からは都市施設が港湾機能と結びついてさまざまな空間が発達していることが見て取れ、戦いのための港もあった。
前2C、商業活動が活発になることで、徐々に下流に都市機能が拡大し、エンポリウム(Emporium)とよばれる港湾施設がつくられた。地中海諸都市と密接に結びつき、重要な役割を果たしていたため、港湾施設周辺に都市が発展していった。
帝政ローマ時代、都市の拡大に伴い商港機能が発達し、川の役割は増加したため、さらに大きな港が必要になりエンポリウムは重要性を失っていった。そこで新しい港がテヴェレ川の河口にあるフィウミチーノにつくられ、エンポリウムは都市の中に入るための港として、第二の港という位置付けとなった。同じく右岸も発展し、川の近くに大きなモニュメントをつくることで風景を変え、さらに川の監視、防御の意味をもたせていた。
古代ローマ崩壊後、人口は減少し、都市は縮小した。そのため建設活動というと、主に教会をつくることであった。教会建設と同時に、周辺を人が住めるように整備する作業も行われた。フィウミチーノに降り立ったヴァチカンへの巡礼者たちは、船でテヴェレ川を上り、ヴァチカンを訪れた。そこで、エンポリウムやテヴェリーナ島などの施設は、巡礼者のための福祉施設として転用された。
中世ではそれほど川と都市の関係は変化しない。都市としては塔や水車が多くでき、集中してコンパクトに、防御の目的も含め川の周りに人々の生活が集中した。川は飲料水確保としても、動力としても重要な役割を果たしていた。
15Cには法王命でブラマンテが計画した都市改造が行われた。川に沿って右岸、左岸共に目抜き通りがつくられ、直線的で明解な都市構成が生まれた。
16C、リペッタ地区が船着場として発展していく。都市施設が左岸に多くつくられ、古い中世の都市組織の中にルネッサンスの要素が加えられることで、都市空間が形成された。特に川に向かって立派な景観が生まれた。テラスやガーデンから川を意識した景観がつくられ、テヴェレ川が一種の舞台としてイメージされていたようである。
18Cになると、リペッタとリーパグランデという2つの象徴的な景観をもつ港がつくられる。リペッタは曲線状の階段の船着場の背後に教会をおき、景観を十分に意識している。リーパグランデも非常に象徴的であり、港の機能と背後にその他の機能をもつ建物が一緒になってさらに効果を高めている。川沿いの空間を彩るさまざまなもの、一つとしてサンタンジェロの橋のモニュメントもこの頃につくられ、さらにこの頃、川沿いに多くの劇場がつくられた。現在でも街路名としてそれらの劇場の名が残っている。
このように、都市の景観のあり方、水への関心を表現するような都市空間のつくり方の両方が共存しながら、19世紀の堤防がつくられる時代に結びついていく。
現在、道路と川の中間の空間がスポーツ施設など水際を楽しむ空間として利用されている。また、夏になるとEstateROMAというイベントがテヴェリーナ島を中心に行われ、テヴェレ川沿いの表情が大きく変化する。さらに、もう一つの水との関係を作り出そうとする試みとして、自転車で回れるような空間もできた。
結論として、高い堤防ができた後、川沿いを楽しむ空間が積極的につくられている。このことから、水際そのものと内側の都市が可能性のある空間として評価され、活用されているということがいえるようである。
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[ローマ01水害] |
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[ローマ02Emporium] |
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[ローマ03リペッタ港] |
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[ローマ04現状] |
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