報告者:上野さだ子(日野の古文書を読む会 副会長)
テーマ:「日野の水車の歴史」
河野日記(慶応2〜明治45年)には日野の多くの水車のことが出ており、明治の五十子敬斉日記や立川民蔵さんの日記、古文書、東京公文書館に水車の資料を調べ、聞き書きなどをやっているうちに、面白くなり深入りした。水車を調べていると日野の歴史が見えてくるような所がある。日野の用水には江戸末期から水車がかけられ、米や麦の精穀が始まった。
昭和12年の天野水車では、水車は水路には直接は架けず、廻し堀という細い水路を引き、落差を確保し、家の中を通す。取り入れ口で水量調整ができ、必要な分だけ水路に入れ水車を回す。 個人水車の場合は、住み込んで作業するのが一般的だが、裕福な家は下男を雇ってやることもある。北原共同水車は2間×3間という小さなもので、臼は4〜6個くらい、水輪は外に出ていて、挽臼はほとんどついていない。共同水車の場合は順番がきた朝に米を入れ込むが、水量が足りなくて夜になっても搗きあがらない場合は、布団を持ちこみ、泊って番をした。明治になると水車はほとんどの村に作られた。共同水車は半株という持ち方もあって、2回のうち1回使えた。その株は売買できた。水車を営業していた家は、だいたい車という屋号を持っていた。
水車機械は高価なため、個人では富裕な村役人層が水車を経営し、近隣の賃搗きなどを行った。水車の出願は幕領では代官に提出した。必ず名主さんの承諾を得なくてはならず、水利権のある上下の村の承諾や、水車を作る周囲の田畑の地主の承諾も必要で、勝手には作れなかった。また、幕府への運上金も必要だった。水車は日野宿東端の、人家が途切れたところに作り、騒音が出るので、近所の家の米は無料で搗くというケアをしていた。
隣町の八王子では明治以降、絹織物産業の急成長による人口増加で米の需要が増えたので、個人水車では米を近隣から買い付けて精米し、八王子へ売った。
金田水車(17番)では3.4m(1丈2尺)の水輪が屋内で回り、30個の臼で米を搗いていた。古文書によると、西平山には江戸時代にすでに3つ水車があったことが判明しているが、規模の大きな水車が16番から22番までずっと続いていて、精米用の米や、搗きあがった米を運ぶ馬車や荷車が行き来したので、水車街道と言われていた。この付近は、今でも古い家や細い道が残り、往時を忍ぶことができる。
水車には、撚糸(より糸)を作る「揚返し場」といわれる水車も平山や高幡にあった。八王子には日野よりずっとたくさん水車があったが、ほとんどが織物のための揚返し水車で、これは水輪の径が小さく、1mくらいだった。
一番水車が多かったのは、明治の終わりから大正の頃で、大正8年に日野に電気が入り、徐々に電化していった。
水車位置図の55・56番は最近作られた復元水車である。日野は水辺の再生に力をいれており、水辺の保全・再生と共に水車も復元している。55番の向島用水の水車は平成8年に竣工、56番は新町の水車堀公園に平成15年に竣工された。
*詳細は2006年度末報告書「水の郷・日野/用水路再生へのまなさし」に掲載
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[日野の用水と水車位置図]
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[日野の水車操業期間一覧表]
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