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第2回 日野プロジェクト勉強会
テーマ:「日野の用水の歴史と変遷」

日時:2006年7月26日14:00〜17:00
場所:法政大学小金井キャンパス西館会議室

 

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報告者:伊藤 稔(豊田堀之内用水組合組合長)
テーマ:「豊田堀之内用水の歴史及び現状」

 昭和33年に就農した。昭和33年は七生村と日野市が合併し、この年の農家戸数は、約1000戸、水田面積390町歩、畑の面積500町歩。5年後の昭和38年には市制が敷かれ、この時の日野市の人口は5万人程だった。日本はこの頃から経済が急速に上向いて、池田内閣の国民所得倍増計画が決定し、農業と他産業との所得格差が広がりつつあった。
 この頃、農業基本法が交付され、新時代に対応する為の方向付けとして期待された。その基本法の柱は経営基盤である、農地の構造改革事業(耕地整理)、畜産、果樹、野菜の選択的規模拡大、いわゆる規模の大型化で欧米並みの農業を目指したが、都市化の波は、土地神話という副産物を生み、農業基本法の理念とは裏腹に農業離れを加速させていったと同時に、都市近郊に無秩序なスプロール化、虫食い状態をもたらした。そのスプロールに歯止めをかけるべく都市計画の見直しがされ、昭和40年代半ばに新都市計画法が施行され、都市機能として基盤整備すべき農地(市街化区域)と生産緑地として都市化を制限する農地(市街化調整区域)とに線引きし、明確にした。しかし、農業追い出し政策であり、都市農業圧殺の都市計画法であった。アメリカの西部劇で、いつもアメリカインディアンは、開拓者から見ると悪者、厄介者として描かれているが、先祖代々その土地で生きてきた私たち農業者はまさにアメリカインディアンと同じ立場のようだった。昭和50年代の高度経済成長と共にまちづくり、都市基盤整備が行政の要となり区画整理事業が盛んに行われるようになり、農耕地が減少し続け、現在に至っている。
 日野市は現在、6つの用水組合がある。豊田堀之内用水は浅川から取水しているが、豊田堀之内地域には、鎌倉時代には、すでに集落があったのではないかと思われる。戦国時代末期、室町時代、当時甲斐の国、武田家滅亡と共に、武州、武蔵野国に落延びた人達が八王子や日野に移り住んだという話は、ずいぶん聞いている。私の親戚の一ノ瀬家は武田家の家臣であり、豊田に移って、450年も経つということで、今の豊田堀之内用水堀の近くに現在も住んでいる。上田用水に信玄堤が生かされていることから、その先祖たちが用水堀の仕事にも携わったではないかと推察される。
 豊田堀ノ内用水組合の用水の維持管理についての変遷、歴史について、戦前は地主が用水堀を管理し、取水は地主の意志で行われていたという記録がある。用水組合の出来たのは農地改革により、地主の力が衰えたため、関係者が用水組合をつくり、春の大堀浚い、夏の水草刈など、また取水口のウマや蛇篭に玉石を入れて浅川から用水堀に取水する作業など相談して毎年行っていた。現在は、浅川の水の取り入れは、市の緑と清流課が窓口となって、業者に委託してブルドーザーで川の砂利を嵩上げしている。
 用水は灌漑用水として稲作農家である農業者が先祖代々守ってきたが、農業者だけでは、用水の維持管理は限界があり、風前の灯となってきている。
 子どもの頃は、ホタルの飛び交う用水堀は当たり前の風景で、浅川には鮎とかウグイ、フナ、なまず、キバチ、カジカ、ドジョウ、雷魚もいたし用水堀の小川にはシジミ類の貝や両性類のイモリ、その他たくさんの虫たちも生息していた。用水は水田の灌漑用水としての役割であり、用水堀は神聖な場所としてナベ、カマを洗う人もいた。用水で子どもたちが立ち小便でもしようものなら大人たちから注意され怒られた。しかし、貴重なカルシウム源や蛋白源だったイナゴや赤とんぼは戦後使われたパラチオンという農薬、殺虫剤により姿を消してしまった。昭和30年代に入って都市化が進み、東京のベッドタウンとして家がどんどん建つことによって稲づくりのための灌漑用水だった用水堀は家庭の残排水の水路として汚染されていった。工場からの廃液が公然と多摩川や浅川を汚染した。昭和50年頃、日野の用水堀からカドミウム濃度が基準値を大きく上まわって検出され転作を余儀なくされ、稲作農家は行政の指導によって配給米を食べた。今では住宅になっている。何よりも私が残念に思うのは、環境破壊が私たちの精神的文化遺産まで忘却の彼方へ追いやってしまったことである。子どもの頃、よく唄っていた童謡の世界、夢やロマンにあふれた水辺の文化、春の小川、ホタルの歌、カエルの歌、トンボの歌、数え上げれば切がないほど心豊かな世界が水辺にはあったような気がする。

*詳細は2006年度末報告書「水の郷・日野/用水路再生へのまなさし」に掲載

 

報告者:上野さだ子(日野の古文書を読む会 副会長)
テーマ:「日野の水車の歴史」

 河野日記(慶応2〜明治45年)には日野の多くの水車のことが出ており、明治の五十子敬斉日記や立川民蔵さんの日記、古文書、東京公文書館に水車の資料を調べ、聞き書きなどをやっているうちに、面白くなり深入りした。水車を調べていると日野の歴史が見えてくるような所がある。日野の用水には江戸末期から水車がかけられ、米や麦の精穀が始まった。
 昭和12年の天野水車では、水車は水路には直接は架けず、廻し堀という細い水路を引き、落差を確保し、家の中を通す。取り入れ口で水量調整ができ、必要な分だけ水路に入れ水車を回す。 個人水車の場合は、住み込んで作業するのが一般的だが、裕福な家は下男を雇ってやることもある。北原共同水車は2間×3間という小さなもので、臼は4〜6個くらい、水輪は外に出ていて、挽臼はほとんどついていない。共同水車の場合は順番がきた朝に米を入れ込むが、水量が足りなくて夜になっても搗きあがらない場合は、布団を持ちこみ、泊って番をした。明治になると水車はほとんどの村に作られた。共同水車は半株という持ち方もあって、2回のうち1回使えた。その株は売買できた。水車を営業していた家は、だいたい車という屋号を持っていた。
 水車機械は高価なため、個人では富裕な村役人層が水車を経営し、近隣の賃搗きなどを行った。水車の出願は幕領では代官に提出した。必ず名主さんの承諾を得なくてはならず、水利権のある上下の村の承諾や、水車を作る周囲の田畑の地主の承諾も必要で、勝手には作れなかった。また、幕府への運上金も必要だった。水車は日野宿東端の、人家が途切れたところに作り、騒音が出るので、近所の家の米は無料で搗くというケアをしていた。
 隣町の八王子では明治以降、絹織物産業の急成長による人口増加で米の需要が増えたので、個人水車では米を近隣から買い付けて精米し、八王子へ売った。
金田水車(17番)では3.4m(1丈2尺)の水輪が屋内で回り、30個の臼で米を搗いていた。古文書によると、西平山には江戸時代にすでに3つ水車があったことが判明しているが、規模の大きな水車が16番から22番までずっと続いていて、精米用の米や、搗きあがった米を運ぶ馬車や荷車が行き来したので、水車街道と言われていた。この付近は、今でも古い家や細い道が残り、往時を忍ぶことができる。
水車には、撚糸(より糸)を作る「揚返し場」といわれる水車も平山や高幡にあった。八王子には日野よりずっとたくさん水車があったが、ほとんどが織物のための揚返し水車で、これは水輪の径が小さく、1mくらいだった。
 一番水車が多かったのは、明治の終わりから大正の頃で、大正8年に日野に電気が入り、徐々に電化していった。
 水車位置図の55・56番は最近作られた復元水車である。日野は水辺の再生に力をいれており、水辺の保全・再生と共に水車も復元している。55番の向島用水の水車は平成8年に竣工、56番は新町の水車堀公園に平成15年に竣工された。

*詳細は2006年度末報告書「水の郷・日野/用水路再生へのまなさし」に掲載

[日野の用水と水車位置図]
[日野の水車操業期間一覧表]
   

 

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