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東京都心の水辺再生プロジェクト 研究会
「東京都心の水辺再生を考える vol.2」

 
日時
2006年6月22日(木)18:30〜21:00
会場
法政大学市ヶ谷キャンパス ボワソナード・タワー25階B会議室

 

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「江東区の親水公園等快適環境づくり」
坂口 清実 氏(元 東京都江東区役所土木部長、(特活)江東区の水辺に親しむ会)

 江東区は江東デルタと呼ばれ、3方向が水に囲まれ、しかも工場の地下水利用による地盤沈下により、水害の絶えない地域でした。河川整備は、江東区内部河川整備事業対象の河川とそれ以外の計画外河川で実施されました。
 計画外河川の再生にも取り組んだ動機ですが、多くの陳情と職員のやる気がによるものだったと感じています。財源についてですが、委任河川のため、河川については東京都の負担で、その周辺については区の公園事業で整備し、区が全体の維持管理を行っています。 昭和40年後半に策定された江東区内部河川整備計画は、スピード化を図るため変更がなされ、城東地区の水位を1メートル下げるとともに、計画外河川が計画河川に格上げされました。
 江東区の水際整備の事例は様々ありますが、横十間川では当初10間だった川幅が40mに拡幅され、護岸に植物を育てました。これは、この頃江東区の基本構想で緑と水のネットワーク構想があり、緑化の後押しとなりました。本来江東内部河川は塩分が多く、植物には適さないのですが、利用されていない工業用水で塩分濃度を下げ、植物が育つ環境を整備したわけです。古石場では、石を利用した整備を行いました。
 江東区では昭和60年代に全国で始めて水上バスを運行させました。この船は、橋桁が低い江東内部河川の特徴に合わせ、小回りのきくよう特注されたものでした。船からの見える景色は陸からのものとは違い、乗船された方々には好評でしたが、当時はまだ水質も悪く、採算性の問題で10年ほどで廃止されてしまいました。水質をはじめ川に区民の関心を寄せてもらうためにも、水上バスは存続させてほしかったと思います。
 小名木川には、江戸時代五本松という安藤広重の絵にも描かれた松があったことから、松の並木を整備していました。ところが河川部から、堤防に植樹すると堤防の機能を損なうといった指摘があり、建設省にまで交渉に行き、了解を得ることとなりました。並木の整備を進めていますと、区民から桜を植えてはとの要望があり、途中からは桜を植えました。今では、春に満開の花を楽しませてくれ、地元市民が主催している「さくらまつり」の舞台となっています。このほかにも港湾地区の塩浜
運河に整備しました潮風の散歩道や、仙台堀川の浮き桟橋を採用散策路、相生橋の下の中の島に整備した横断散策路などがあります。

 

「隅田川の防潮堤とスーパー堤防」
石川 金治 氏(徳倉建設株式会社 最高顧問、(特活)ア!安全・安心街づくり 理事長)

 頼朝が下総から大川を渡り鎌倉に攻め込むとき、大川の近くの地侍が船を出して進軍を助けたと言う話があるように、大川周辺は湿地帯であった。江戸に移封された家康は、この湿地に水路を掘った土や神田川の開削土で埋め立て地を作り、また利根川を東遷し、湿地を安全な住宅地や商業地に変えた。
 この河川工事により水害の回数は激減したので、明治時代までの300年間は大きな河川改修はなされなかった。明治40年、同43年に大きな水害が有り、威信をかけて荒川を葛飾・江戸川方面に東遷すべく荒川放水路が開削された。荒川放水路完成により、大川(隅田川)の河積(断面積)は洪水に対して十分広いものになったので、河川改修の必要が無くなった。神田川や、石神井川など隅田川支川は河積が狭く、洪水に悩まされているが、これら隅田川支川流域の開発により洪水流量が倍増した今日でも、隅田川本川の流下能力は十分である。
 昭和初期から始まった墨田・江東地域の工業化に伴う工場用水の汲み揚げにより、軟弱地盤であるこの地域は地盤が沈み初め、高潮時には河水が隅田川の堤防を乗り越えるようになった。
 荒川放水路の完成によりどんな大雨にも対処できる隅田川の堤防も地盤沈下という新たな現象には耐えられない。そこで、戦前の昭和9年頃から東京府・東京市により高潮対策10カ年計画が立てられた。しかし、大東亜戦争の激化により80%完了時点で、この計画は打ち切られた。
 戦後の昭和24年に襲来したキティー台風による高潮で、低地帯は壊滅的な被害を受けた。この被害を再度受けないように、第1次東京高潮対策事業が始まり、8年後の32年に完成した。この間に朝鮮戦争の特需などが有り、この地域の工業の隆盛は目を見張るものがあった。それに連動して、工場用水の汲み揚げも盛んになり、地盤沈下は年率15cmに達する程であった。同じような低地を抱える名古屋を襲った伊勢湾台風は5000人を超す死者を出すという高潮の恐ろしさを国民に認識させた。このような被害から東京の下町を守るために伊勢湾台風対応型の高潮計画が緊急的に立てられ、実施された。これが世に言う「カミソリ型堤防」、「刑務所の塀」である。
 沈下量4mにも及ぶ地盤沈下を補うために刑務所の塀のような高い護岸が緊急に必要になった。沈下した部分を元の高さまで盛土して、地盤を高くすれば、低い堤防でも安全で風流な江戸時代の墨堤が再現される。それがスーパー堤防である。

 

 

 

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