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第1回日野プロジェクト勉強会
テーマ:「日野の歴史」

日時:2006年6月12日(月)14:00〜17:00
場所:法政大学小金井校舎第一会議室

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日野の歴史−民俗史編
報告者:金野啓史(日野市教育委員会教育部文化スポーツ課文化財係)

日野市域および旧日野町
永禄年間に佐藤隼人という人物が多摩川から取水する用水を開発し、旧日野町の基幹用水となり、市域の広い範囲を今も潤している。浅川からも、豊田用水や平山用水や向島用水などが取水され、低地に広がる水田が支えられていた。さらに台地や丘陵を水源とする湧水や地下水が加わり、日野市域の水をめぐる環境が成り立っていた。
江戸時代の日野市域には徳川家康の江戸入城後、甲州道中の制定と共に定められた甲州道中日野宿があった。この日野宿は甲州道中が多摩川を渡る「日野渡船場」の運営も受け持ち、また日野宿周辺の村落は、助郷村などとして宿場とかかわりを持っていた。
ちなみに、佐藤隼人は、永禄年間に美濃から日野に移り住み、付近の農民を守り、用水の掘削を行うなど、草分け名主として足跡を残したとされる人物で、その子孫は日野本郷の名主と日野宿の問屋を勤めている。
旧日野町は、近代まで水田稲作を主体に副業としての養蚕が盛んに行われてきた。
台地では、天保以降になると新田開発が行われ、八王子の高倉新田という新田集落が開発されるなどした。しかし台地上は水田稲作に向かない。明治時代まで、雑木林と畑が混在し、麦や陸稲、根菜類などが作られるという状況が続いていたが、明治20年代から殖産振興策の一環として養蚕が推奨され、桑畑が作られるようになった。特に日野市域は、八王子という絹織物の産地に隣接しているという条件もあった。桑畑はまず多摩川や浅川の沿岸の稲作に不向きな土地に作られたが、養蚕が隆盛を迎えると、桑畑は日野台地上に広がっていった。明治末年には若干の雑木林を残して、日野台地はすべて桑畑になったと言えるほどに変化した。
昭和5年に始まる昭和恐慌によって、生糸、絹織物、綿布など輸出品や、米、麦、繭などの農産品の価格が暴落し、生活困窮者が続出し、税収は激減した。そのような経済的な危機の打開策として、日野町では日野五社(東洋時計(後のオリエント時計)、六桜社(小西六の工場。今日のコニカミノルタ)、ヂーゼル自動車工業日野製造所(今日の日野自動車)、富士電機豊田工場、神戸製鋼東京研究所(後の神鋼電機))と称される大工場の誘致を行い、昭和11年から18年の間に相次いで立地した。これにより働く場が創出され、税収は増加し、日野町は経済危機を脱することができた。工場立地の決め手になったのは、地下水の質と量だったということである。
昭和30年代になると、これらの工場を基盤とした新しい都市建設が始まった。昭和25年に首都建設法が制定され、それに基づき33年に第一次首都圏整備計画が決定した。東京23区、武蔵野市、三鷹市、川口市、川崎市、横浜市を市街化区域とし、その周りには農村や公園などで構成されるいわゆるグリーンベルトを設け、市街化区域の膨張を抑制する。さらにグリーンベルトの外側に衛星都市を建設し、都心部に集中する機能と人口を分散しようとする計画である。その衛星都市の第一号として、日野八王子地域が指定された。新たに旭が丘地区の開発が行われ、東芝や帝人といった大企業が誘致された。また、衛星都市の“住”を担う場として、住宅都市公団の手により多摩平団地という大規模団地が建設された。

旧七生村地域
多摩丘陵地の旧七生村地域にある程久保という集落は、いわゆる谷戸の集落である。湧水を水源とする程久保川の水を使っていたが、耕地面積は限られていたため、低地に位置する農家と契約を結び山林の定められた範囲で枝の伐採や落ち葉の採取を行い、それを燃料や肥料にしたりして現金収入を得るなど丘陵の雑木林を活かした生活が営まれていた。また、明治20年代から養蚕が盛んになるといち早く養蚕を行ない、さらに小規模ながら乳牛の飼育を行うなど、副業が盛んに行われた。多摩丘陵では、ごく少数ではあるが、樹木を伐採・製材することを生業とする山師・空師と呼ばれる人たちも活躍していた。
大正14年の玉南鉄道(今日の京王線府中―京王八王子間)の開通し、七生村の観光開発は昭和初期から盛んになった。七生村には高幡不動尊、百草園など名所旧跡があり、江戸時代から不動尊の参詣客や文人墨客が数多く訪れていた。京王電軌も沿線の観光開発に励んだ。また多摩丘陵という豊かな自然を活かしたハイキングコースを地元と協力して整備した。
昭和恐慌時の村の立て直し策として経済更正と満州への分村計画で、満州に開拓団を送り込んだ。経済更正の具体策として、南平でアユの養殖など観光を含めた様々な副業が農家で盛んに行われるようになった。地下水を活かして新たな生業であるが、日野台地に工場が立地し、地下水が大量に汲み上げられた頃から、南平地域のアユの養殖も下火になってしまったという。
戦後の七生村は農村改良と生活改善に熱心に取り組んだ。また観光立村を施策の柱とし、京王帝都電鉄と協力して多摩動物公園や多摩テックを誘致するなどして発展した。そして日野町との合併を迎えた。
しかしその後の東京のスプロール現象は、衛星都市建設のスピードを上回っていた。その結果、まず多摩丘陵が宅地化され、やがて農地を食い潰すように市域全体に住宅地が広がっていった。現在の日野市はこうした流れの中に置かれている。

水にまつわる信仰
日野では村の鎮守社の前での雨乞いの祈祷や、高幡不動への願掛けなどが行われた。相模の大山を望むことができる関東一円では、大山へ代参をして雨乞いをすることが盛んに行われたが、大旱魃の時には日野でも行われた。
時として水は脅威となる。このような水の脅威から身を守るために祀られた神仏は数多い。「堰大明神」は堰を守る明神様の意であったと考えられる。
日野駅のすぐ北側にある四谷集落に住む人々は、ウナギを食べないことで知られている。
大水の時に、わずかな堤防の穴に何匹ものウナギが入り込み、塊のようになって決壊を防いだという話が残っていることによる。
*詳細は2006年度末報告書「水の郷・日野/用水路再生へのまなさし」に掲載

「発掘調査の成果より見た日野市域における古代以降の土地利用の変遷〜沖積地における乾田・用水系の整備過程を中心に」

報告者:中山弘樹(日野市郷土資料館学芸員)
日野市域では発掘調査などによるデータの蓄積が比較的多いのは、(1)JR日野駅の西側一帯(四ツ谷前遺跡、姥久保遺跡、栄町遺跡、新町遺跡)(2)万願寺の土地区画整理地区(南広間地遺跡)(3)落川土地区画整理地区やそれに隣接する落川都営アパートが立地するエリア(落川・一の宮遺跡)である。その一方で、黒川湧水や豊田用水が流下する川辺堀之内地区、東豊田の沖積地、平山の沖積地、加えて浅川の右岸域については、ほとんど考古学的なデータがない。
考古資料を扱うに当たって直面する問題に、年代絞り込みに伴う限界がある。中世の後期、特に、戦国時代から近世初頭にかけて一番重要になるが、この時期の遺物を確実に伴う遺構というものは日野市域では極めて限られている。そのため、中世後期だとか近世初頭だとかそういう曖昧なレベルでしか物語を組み立てることができない。日野駅の西エリアでは、戦国期の遺構もたくさん見られるが、万願寺の土地区画整理地区、落川の土地区画整理地区においては、中世後期から近世初頭にかけての遺物を確実に伴う遺構というものが極めて少なく、水田の時期決定の際にもかなりの年代幅が生じてしまう。
以上のことを念頭に置き、用水系の整備や乾田耕作の史的展開、景観の変遷についてみていくことにしたい。
日野市域の多摩川は、網状流地帯、扇状地性の網状流地帯の特性を帯びており、今でこそ堤防で囲い河道の移動を防いでいるが、本来であれば、網状流、つまり流路が網の目のように発達していた。しかも、流路の安定性は非常に低く、頻繁に流れを変えていた。その網の目の間に、主として砂や礫、それも人頭大程度の礫からなる高まり(砂礫堆)が形成されるエリアである。
一方、浅川は、堤防が築かれる以前は現在よりも河道の屈曲が激しかった。ただ、浅川についても一部で網状流の特性が見られる。つまり、河道の安定度が極めて低い河川で、あっちへ移動したり、こっちへ移動したりということが非常に頻繁に繰り返されていた。洪水時には細粒の土砂をもたらすが、河床は砂礫を中心としていた。このように不安定な沖積地であるが、島津他の研究(1994)により、以前は「沖積地」として一括されることの多かった浅川と多摩川にはさまれた範囲の地形面がおよそ3つの面に区分できるということが明らかになった。それによれば、最初にL1面が6000年から4000年前にかけて段丘化し、河原でなくなったと推定されている。(図1)しかも一度に崖が形成されて段丘化したのではなくて、上流部の方から崖が形成され始め、下流部の方が新しいという所見が得られている。
次にL2面は、4000年前から1500年前以降、つまり古墳時代の中期以降にかけて崖が形成されて安定した地形になったとされている。現在の河道はこの崖より低いところを流れており、この面がL3面である。河床面との間にはこういった崖があるが、いざ洪水が起こると、L1面やL2面でも崖が低いところでは、洪水流が崖を乗り越えて氾濫し、土砂が堆積するということがあった。氾濫水は多摩川や浅川のかつての河道に由来する窪地を流れ、その際に堆積する土砂によって窪みが埋まり地形の平坦化が進むということが繰り返し起こったようである。
落川・一宮地区についても、沖積地が何段かの崖線によって画されていることは、万願寺地区と同様である。
こうした崖線や、十分に埋積されない旧河道、島状の高まりとして残る砂礫堆(一部に自然堤防を含む)が用水の流れを大きく規定する要因となった。
「発掘調査の成果より見た土地利用の変遷」ということで(1)日野駅西方におけるL1面上の調査成果、(2)南広間地遺跡(万願寺の土地区画整理地区)の調査成果、(3)落川・一宮遺跡にみる土地利用の変遷により、
佐藤隼人による日野用水上堰の開削というものは、L1面からL3面すべてにわたる一円水田化を可能とした日野市域における土地利用史上、画期的事業であると考えられる。しかし、前代より地形環境や社会的条件、あるいは土木技術の水準に規定されつつ、用水系の整備や水田開発が繰り返し行われていた事実を前提とせずに、佐藤隼人の業績に代表される現代用水系の整備事業を正しく評価することはできない。また、近年の土地区画整理事業が始まる直前まで見られた一円水田景観は、整備された用水系を利用して、近世を通して完成するに至ったものであり、骨格は短期間に形成されたにもせよ、近世を通じて徐々に出来上がってきたものと見られる。
また、17世紀前半から19世紀にかけての石高の変遷を史料より抽出して見るとどの村についても、石高が増加している。石高の増加をすべて耕地の拡大によるものと単純に読み替えることは危険だが、近世初頭までに完全に一円耕地化が達成されていたわけではなく、近世を通してさらに耕地の拡大が進んだことを示しているもの、と捉えても大過あるまい。
*詳細は2006年度末報告書「水の郷・日野/用水路再生へのまなさし」に掲載

[図1 島津他(1994)より第10図]
 

 

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