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2005年度国際シンポジウム アジアの都市再生 I

日時:2005年10月8日(土) 13:00〜17:00
場所:法政大学市谷キャンパス80年館 大・中会議室

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「マカオの歴史的地区における公共空間の再生」 澳門民政総署建築及設備部/高級技術員 フランシスコ・ビゼウ・ピンヘイロ
古くからポルトガルとの関わりがあったマカオは、西洋と東洋との文化・民族が出会った場所であり、それによって繁栄と衰退を繰り返してきた都市である。今回の発表では、
1.交易都市マカオの形成過程
2.近年の高密化とギャンブルによって起きた都市開発と諸問題
3.広場再生の事例と歴史地区の保存
の3つに絞って話してもらえた。
ポルトガル人が来航するまで、マカオは少数の漁民が使用するだけの場所であったが、ポルトガル人が住みはじめてから、本地や客家など多くの華人が居住するようになった。現在のマカオは1つの半島と2つの島からなるが、明代・清代においてマカオは半島部分の事を指した。17〜18世紀の半島の地図を見ると、地形の高低差によって生じた不整形な街区が存在し、街が発生していたのがわかるが、城壁内でとどまっている。ポルトガル人は城壁内にイベリア半島によく見られる要素をふんだんに取り入れた街を形成していった。城壁の外側には中国人のいくつかの村と水田が広がり、城壁内の街はクリスチャンシティーと呼ばれ、多くの教会建築が建てられていた。その後、城壁内の内港沿いにチャイナタウンが発生していった。19〜20世紀になると城壁の外側に街区が発 生していき、かつての水田地帯にはグリッド状と放射状の道路が通され、都市計画が行われていったことが読み取れる。この頃にはすでに城壁は無くなっていた。また、城壁内の旧市街には1914年に市区改正により、サンマーロ通りが通されている。西洋と東洋の要素が長い間混在してきたため、ファサードが洋風で内部のプランは東洋という住居など、両方の影響があったのがマカオの特徴でもある。このように、マカオの街はポルトガル人の手により旧市街がつくられ、海沿いにチャイナタウンが発生し、その後、都市計画や市区改正などの近代化を経て今日に至る。
現在マカオの問題は人口密度の高騰である。今は埋め立てと高層マンションによりそれを解消しているが、その都市開発はマカオの狭い土地に多大な負荷をかけており、歴史地区の保存にとっても脅威となっている。また、近代の博打合法化、近年のカジノによる観光化により、交通の混雑も問題となっている。駐車場が足りていない状態が続き、教会前の広場に駐車する状態である。
最近UNESCOの世界遺産に登録されたマカオの歴史地区だが、諸問題を改善するとともに、歴史建造物が並ぶ旧街道沿いが人を集めるような場所にもなるように再生案を考えた。旧街道沿いにあるセナド広場や聖ドミンゴ広場は、以前は賭博や商業などコミュニケーションをとる場所であったが、近代化の中で車道や駐車場に変わってしまった。広場の再生として、車排除のため噴水を置き、完全歩行者用の広場にした。また、Cobblestonesというポルトガルの伝統的な石材で歩道を舗装し、歩道と車道の区別化をした。こうした再生がきっかけで、その付近の土地の価格が以前の4倍ほどに上がって、ビジネスにも良い効果がうまれた。ただ昔の状態に戻すのではなく、保存・再生の方法としてリニューアル・リハビリテーション・リバイバルの3Rを場所によって使い分けることが重要である。
いま現在もマカオでは埋め立てなど、都市開発が頻繁に行われている。ウォーターフロントでは様々なカジノやホテルの建設が行われ、ポール・アンドリュー設計のホテル兼カジノのプロジェクトも予定されており、まさに建設ラッシュである。しかし、それに伴う危険性を認識し、3Rによる街の再生を行っていくことは、今のマカオにとって重要であると思われる。歴史地区は元西洋人居住区の部分だけであるが、今後は西洋と東洋の部分を連結させながら再生していくことに期待したい。

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「歴史・自然環境と都市開発−高速鉄道新竹駅、特定地域における客家集落の実例」 中原大学建築学系/副教授 黄俊銘
本発表は、台湾の新竹を通る高速鉄道によって、それまでの土地信仰に根付いた農業地の保存を都市計画の点から明らかにするものである。
新竹にある六家という地域は、1730年代までは原住民(高砂族)の土地であった場所を客家の林家が開墾した集落が文化財として残り、また、もう一方の林家により開墾された農地があり家族の祖先を祀る建物も残されている。1938年に堤防が設けられた頭前渓という川からの灌漑によって農地として、また川と山に挟まれていることにより、山からも生活資源が運ばれて自給自足の自然環境に恵まれた農業社会が形成されていた。
高速鉄道計画により、鉄道を通すときに新竹の中で台湾産業にとって重要なシリコンバレーに働く人たちが住む地区に近いところにつくる計画が出された。1998年に株式会社が設立され、台湾政府の高鉄局と契約を結び、海外からも高速鉄道の設計図が送られてきて計画は進んでいった。
高速鉄道のような公共施設をつくる場合、既成の都市ではなく辺鄙な場所で、特に農地といったような土地の安価な場所に作られることが多い。よって資本の面から六家が選ばれることになった。しかし、六家は客家の文化の残る農業地であり、急に高速鉄道を通してしまっては便利ではあるが自然的・歴史的景観が失われ、一部の政府の人たちや学者たちによって保存運動が始まった。
今でも、農業用水の脇には畑を耕している人たちがおり、また街のいたるところに農業用水の伝統的な知恵が残っている。その一方で、土地基盤工事などで余った土を公園に置いてしまったり、土地信仰の石碑が一つの場所にまとめて置かれてしまったりしている現状がある。
最初に、景観、建築、生態、メディア、政府などの専門家が集まり、どうすれば歴史的景観や自然環境が保たれるのか議論された。
それから、六家地区の林家などの伝統的な集落形態をもとに、住民たち(以前から住んでいた人たちとこれから住む人たち)と一緒にワークショップを行い、住民参加、体験を修復の方法としている。
具体的な方針として、ブルーベルト(川と灌漑用水)とグリーンフィンガー(森)を軸として都市の計画、景観保存するべきである。つまり、台湾での保存活動では環境の専門家たちと一緒に歴史的な建築、都市の保存することが重要であると考えられている。
また、住民組織、地方自治体などによる永続経営管理体制によって新竹における歴史と景観はうまく保たれるのである。

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「ベトナム都市の近代−現代」 東京大学生産技術研究所/助手 大田省一
ベトナム都市の近代から現代を中心に、ベトナム北部の中心地である首都ハノイとベトナム最大の都市であるサイゴンの2都市から、べトナムの近代から現代、現状についての講演が行われた。
ハノイは黄河、サイゴンはメコン河、2つの都市はともにデルタの中心地として発展し水の文化を基層としているが、フランスの植民地時代に入ると2つの都市の開発が異なって進められていく。
ハノイは19cまで王朝の首都として栄え、在地の水上交通と中国の土壌概念を読み換え、都市を都と見立てて都市を形成していく。植民地後はフランスの格子状プランが計画されるがまだ沼地が残っている状態であった。36通り地区の街路からハノイの都市構造を詳しく分析する説明が行われた。この地区にあるハンバック通りの特徴は、フランス政府による衛生状態改善のため、道が平坦になり、歩道が作られ、ガス灯や地下には上下水道が整備され植民地政府が積極的に旧市街を整備した。植民地以前のハンバック通りは、銀を売る店と工房、両替商の各ギルドが銀と結びつきながらまとまって住む構造をしていた。
ハンバック通りに背割り線をいれて読み解くと、古い通りに挟まれたところは背割り線が真中を通っていることが分かる。しかし、植民地時代になると既存の町屋をえぐるように道路が計画される。そのため、背割り線に変化が起きる。新しく出来た通りは商業空間として価値がでてくるため、新しい通りに対して町屋が出来始めていく街区の成長の様子が読み取れる。
一方、サイゴンはハノイと異なり、時間の流れにそって徐々に都市が形成された。サイゴンはフランス軍技師により50万人規模の都市計画がつくられる。その計画は放射状でグリット上の都市計画であった。その街区内の形成がハノイの街の軌跡を探る上で重要なものとして考えられる。チャイナタウンであるチョロン地区は町屋が立ち並んでいる。街区内には路地の引き込みがあり、その路地ごとに区切りをもって住宅地が形成された。そこには中国の里弄住宅と似通った構造が読み取れる。里弄住宅は面的開発に適しており、里弄住宅の集合体としてチョロンが出来上がってると考えられる。そのシステムを華僑や在地のベトナム人が習って大規模な土地所有が行われていたのではないかと考えられる。
現在のベトナムにおける都市再生は、まだ発展の段階であるといえる。ハノイは土地所有が入り組んでいるため、都心部は手がつけられない場合が多い。よって郊外に大規模な地区が開発されているが、特にバイクの交通渋滞が深刻な問題となっている。郊外開発の起爆剤として東南アジアのオリンピック「シーゲーム」を誘致し、シーゲームエリアを計画している。その跡地利用として緑地帯の中に住宅地を置く計画が予定されている。都心部の城跡は軍用地として都市開発が遅れていたが、軍の撤退により国会議事堂が計画されていた。しかし、王朝時代の遺跡が多く発見され、考古学委員が保護することになり、遺跡公園にすることが決定し国会は郊外に移転された。
一方のサイゴンも同じ面的な郊外開発が次々と行われている。都心では前近代の商業・物流ネットワークが今も成立しているため、町屋が現在も利用されている。町屋の保存プロジェクトも進められており、そこで重要であるのは町屋の空間性を受け継ぎながらの開発をすることである。

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