|
|
2004年度国際ミニシンポジウム
日時:2004年9月27日(月)13:00〜18:00
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス62年館通教302教室
※この研究会の内容は報告書としてまとめられました[詳細] |
|
『「地中海の船と港と航海」―古代ギリシアから中世イタリアへ』
東京海洋大学 丹羽隆子
文明の興隆と持続は、交通の利便性が大きく寄与していた。古来、水運と海運の利便性が近隣諸国との物質文明、先進文化の伝播と交流を可能にし、豊かな文明を育んできた。今回の発表では、古代から中世イタリアに至る、地中海の船と港と航海について、海という視点から地中海文明史を見直した。
メソポタミア文明のハンムラビ法典には、海運による商取引に関する約束事が事細かに記されており、海運が非常に活発であったことが伺える。陸路の開発・整備は9世紀頃に完成したが、海路の物流量は陸路の何百倍、何千倍であった。動物の皮舟を使った筏や、現在も使用されているたらい船など、造船術が発達し、その様子は当時のレリーフにも描かれている。
ナイル河畔に栄えたエジプト文明は「エジプトはナイルの賜物」と言われたように、とても肥沃な土地に豊富な食糧を得、地中海沿岸に輸出して経済的に栄えた。それと同時に「エジプトはナイルの氾濫の賜物」でもある。ナイルが氾濫するとエジプト全土は海と化す。人々はそれを利用し、長い距離も期を見計らって船で荷物を運んだ。古代エジプト船の命綱であったホギングトラスという、船首と船尾が外側に弛まないようにする索具も発明された。また、死後、王が川を渡って旅ができるようにと、墓の前に船を置く「聖船」という信仰も特徴的で、クフ王の「太陽の船」が有名である。この船にも使用されているレバノン杉は、造船には欠かせなかった。
フェニキア人は、優れた造船技術と巧みな操船術で、東地中海の海上交易の覇権を握った海洋商業民族である。レバノン杉を手に入れるためにエジプトとの交流が始まった。船の中心線を頭から尾まで通る竜骨の発明は、車の発明に匹敵するほど重要な発明であった。
ギリシア文明は、明るく洗練された海洋文明である。「オデュッセイア」等のギリシアの海洋文学には、地中海世界の人々の海への憧憬と野望、神々への祈りと自然への畏れが象徴的に描かれている。ギリシアの船、3段櫂船は、ギリシアの民主政を確立させた花形軍船である。またこの時代は、自然の環境が造るデロス島の港などの良港が多く存在した。
一方、陸の民ローマは前300年頃まで1隻の軍船も所有していなかったのだが、ポエニ戦争でフェニキア人植民都市カルタゴを壊滅させ勝利し、「地中海はわれらが海」と地中海世界へ進出した。帝都ローマの物流の中心地だったオスティア港の巨大な遺構には、各種ギルドやドック、神殿、浴場、野外劇場、広場、豪商の邸宅などがみられる。古代の港はローマにて完成したのである。
近代以降のヨーロッパ文明は、その基礎にある多様で重層的な海の文明としての地中海史をなおざりにしてきた。歴史をみる目を陸から海へと転じ、海という大自然と向き合って暮らした人々が培った地中海世界の歴史を、海の文明史として通観し直すことはとても意義あることである。
|
|
|
[地中海の船と港と航海]
|
|
[カルタゴ港] |
|
[カルタゴ港2] |
|
[オスティア港見取り図]
|
|
[オスティア港で働く人々] |
|
|
『中継貿易都市ヴェネツィア―その社会経済と空間の特質』
ヴェネツィア建築大学教授、イタリア都市史学会会長 ドナテッラ・カラビ
中継貿易都市として発展したヴェネツィア。今回の発表ではその特殊性について、経済的背景、都市構造から他の港町と比較し、ヴェネツィアの空間の特質を明らかにした。
ヴェネツィアは地中海の端に位置しながら、長い期間、交易で地中海を支配した。いかにしてそれが可能になったのか、その理由は、経済のストラテジー、税金を取る制度、交通の誘導、コントロール等が戦略的に方向性をもって行われ、中継貿易のシステムをつくったことにある。全ての方向から来る船を、ヴェネツィアを通して物資を運ばせることによって、ヴェネツィアの経済の背景ができた。
次に都市の形態について見る。普通の港町はひとつの港を中心に都市が出来上がる。しかしヴェネツィアは港のシステムを点在させた。アドリア海とラグーナ(潟)の間を結ぶいくつもの入口が港となり、ラグーナの中に巡らされた運河を通ってアクセスするという特殊な港のモルフォロジーをもった。そして、船を修復するドックがある島、商品を保管する倉庫がある島など、それぞれの島全てが港の役割の一部を分担し、全体として機能していた。エコロジカルでデリケートな環境の上にいかに有効で強力で特徴ある港町の構造をつくったか。それは、技術的な面も重要であったが、同時にシステムとしても非常に優れていたのである。そして、このシステムはその後何百年間も機能し続けた。それは他の都市が持っていない大きな特徴であった。
港町の第二のテーマとして、移民、人々の共存問題が挙げられる。それはヴェネツィアという都市が歴史的にも経験してきたことである。商業が発達することによって多様な文化が共存し、グローバリゼーションが進んだ。大勢の外国人に対して共和国がどう考えてうまく施設をつくり、居住地を誘導したかをみると、ヴェネツィアは、ホスピタリティをもって外国人に接していたことが分かる。都市の一員として外国人は暮らし、自分の信仰する宗教の教会をもち、コミュニティを持っていた。ヴェネツィアにとっても移民は経済活動を支えるためにとても重要な役割を担っていた。また、文化的な意味合いももっていた。例えば、ドイツの文化的な活動の拠点となり、市民との交流も生まれた。また、外国人のコミュニティが内戦を避けることにも繋がり、ヴェネツィアにとってもプラスの存在であった。
このように、ヴェネツィアには、言語も習慣も違う他民族が都市の中で共存するための社会的なソフトな知恵が集積されており、国際交易都市が長い期間をかけて積み上げてきた豊かさがある。このような視点は、港町の文化、社会を考えていく上でのひとつの重要な視点となるだろう。
|
|
『中世海洋都市アマルフィ―オリエントとの交流と港町の空間構造』
アマルフィ文化・歴史センター所長 ジュセッペ・ガルガーノ
ヴェネツィアとアマルフィは、立地条件はかなり違うがその誕生の歴史は大変似ている。両者とも中世の早い段階でゲルマン民族から逃れるため安全な地を求めていき、海に開かれて東方貿易に繋がる可能性をもった。今回の発表では、中世海洋都市アマルフィの発展について、古代から遡って文献史学の面から明らかにした。
アマルフィでは、先史時代の石器が発掘されるなど古くから人が住んでいた形跡がみられる。その後ローマ人が住み始め、皇帝たちはカプリ島をはじめ、アマルフィからソレントにわたってアマルフィ海岸一帯に別荘を建設した。そのため、アマルフィ海岸一帯にはラテン語に由来した地名が多く、別荘を所有していたローマの貴族に由来するものも存在する。
そして、この渓谷という特殊な地形は防御に適し、特に交通手段として船を持たなかったゲルマン民族から逃れるには好都合であった。その上、アマルフィの人々にとっては海へ開けたこの地形が東方貿易に繋がる可能性を広げてくれた。
839年に海洋自治権を獲得し、10世紀頃には早くも繁栄の時期を迎える。アマルフィ共和国が樹立し、アマルフィ海岸一帯に点在する複数の都市核で構成された。その中でもアマルフィは政治、経済の中心地であった。
アマルフィのアルセナーレ(造船所)は、南イタリアに現存する唯一の中世のアルセナーレである。天然の自然地形をいかし、ローマ時代に噴火したヴェスヴィオ火山の凝灰石を整形することで港を形成した。そして、この港湾部分に面して商業地区が広がった。この地区には商業機能に合わせて付けられた地名が多くある。住宅エリアは東西の高台に広がり、そして北には産業エリアが分布している。川の流れを利用した水車で小麦をひき、その後は製紙産業が発展、14世紀には製鉄業も行われていた。周辺には段々畑の農場が豊かに広がっており、現在ではアマルフィの特産品であるレモンを栽培している。1854年に描かれたドゥオモ広場の様子を描いた絵画では、バロックが崩れかかりロマネスクの雰囲気で、ドゥオモ広場を計画している様子が描かれていて、現在のファサードに近くなっている。現在のドゥオモのファサードは奇しくもヴェネツィアのモザイク職人の手によって1891年に完成した。
|
|
『ピサとジェノヴァ―海洋都市の比較論』
法政大学教授、エコ地域デザイン研究所所長 陣内秀信
ヴェネツィア、アマルフィにピサ、ジェノヴァを加えて、イタリア中世の四大海洋都市の政治、社会構造、港湾機能、都市形態を比較し、考察した。
ピサは、この四大海洋都市の中で唯一、川を挟んで両岸に発展した都市である。フィレンツェが川の北側だけに町が発展したのに対し、ピサはフィレンツェから流れてくるアルノ川の両側に早い時期から発展した。中世以降、アルノ川が重要になり、川沿いに都市の重要な機能が分布するようになる。屋台、船着場、賑やかなマーケット等が並び、都市の活気ある機能が溢れていた。しかし、メディチ家の支配下になると大幅な都市改造が行われ、雑多な市場は都市の内側に移される。代わって川沿いにはモニュメントを建て、広場をつくり、綺麗なファサードで飾るようになった。川は次第に、物資が入って荷揚げしマーケットの機能を果たす機能的な場から、祝祭、スペクタクルが行われる都市の象徴的な場へと変化した。このような空間の質の変化は、ヴェネツィアのカナル・グランデも同様に辿った道である。
1970年代に河川改修が行われ堤防が高くなり、水辺との接点は薄れたが、今でも人々は水辺を象徴的に使っている。その例として、現在も続いている守護聖人サン・ラニエリの宵祭りがある。祭りを通して人々は川の記憶を思い出し、川を中心とし発展した町であることを再認識する。
ジェノヴァは古代ローマ時代から良港として発展した。港に向かって中世の地区から垂直に路地がのび、その先には桟橋が張り出している。ヴェネツィアのサン・マルコ広場、アマルフィのドゥオモ広場のような、都市がひとつにまとまるための空間装置である象徴的な広場がないが、これは、政治・権力の構造が違うためであると考えられる。ジェノヴァでは、門閥間の権力争いが激しかった。そのため、都市全体としてのまとまりがあまり見られず、その在り方を都市として表現するということがなかった。都市を囲む城壁はないが、塔状住宅が防御のために並んでいる。搭状住宅は、地盤が固く、建物が上に展開しやすかったため発達し、下はポルティコになって誰もが通れる公共性をもった空間になっている。道は狭く、広場は少ないがこのような公共空間が多くあった。
以上みてきたように、政治、社会構造、港湾機能のシステムの違いから都市形態に違いがうまれた。
そして、海とのつながりを大切にしながら育まれた文化が現在でも受け継がれ、都市の中に生きている。
|
|
|