「水辺都市ヴェネツィアが失った運河に関する研究―運河から路地へ、近代の論理とその空間―」 石渡雄士
本発表は、イタリアのヴェネツィアで行われた運河の埋め立てを視点にして、埋め立てた近代の論理と運河から路地へと転用した空間の特徴について説明を行った。その路地は、現在リオ テッラと呼ばれている。
最初に運河の埋め立ての論理を考察した。運河の埋め立てが行われる17世紀から20世紀までの個々の運河の埋め立て理由を分類することで、近代による埋めたての論理を明らかにした。その理由は3つに分けられ、運河のメンテナンス費用の節約のため、悪臭・衛生問題による改善のため、陸路の動線整備のため、があげられる。
次に列強国に翻弄される近代ヴェネツィア史に注目し、自国統治時代のヴェネツィア共和国と他国統治時代のフランスとオーストリアに分けて支配者の論理について分析をした。運河とともに発展した歴史を持つ自国統治の論理は、水路全体の水流の保持に十分配慮した運河の埋め立であったことがいえる。ヴェネツィア共和国が崩壊し、他国支配の時代になると埋め立ての論理が変化する。他の目的のため、舟運の重要な幹線路や全く問題のない運河を埋め立てる考えである。オーストリア統治下では、カナル グランデに架けられた2つの橋を中心とする陸路整備の目的で埋め立てが行われた。そして、フランス統治下ではナポレオンの凱旋行進を行う場所を造るために埋め立てが行われた。その一方で、並木道や公園の整備等、統治者による路地の理想空間がリオ テッラで表現され、新たな都市空間を造り出した。
次に運河を埋め立てて誕生したリオ テッラが他の路地とは異なる特徴を持つことを明らかにした。結論としてリオ テッラは他の路地と比べて道幅が広く、長い。そのため地面に太陽光が降り注ぐ開放的な通りを作り出し、この街の多数である道幅が狭く日の当たらない路地とのコントラストがあり、それが魅力的な路地空間を創り出している。又、かつて運河であった形跡が現在どのように歴史の記憶として残っているのかを明らかにした。
最後に、リオ テッラが今日、人の集まる場として住民の生活に密着し、コミュニケーションの場としての機能を持ち、また多様に路地空間が利用され、ヴェネツィアが持つ魅力の一つとしてリオ テッラがあることを明らかにした。
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[運河の埋め立てが行われる論理] |
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[運河の埋め立てが行われる論理] |
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[リオ テッラが持つ空間の特徴] |
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[リオ テッラが持つ空間の特徴] |
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[リオ テッラが持つ空間の特徴] |
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「アムステルダムの町を読む」 岩井桃子
水都アムステルダム中心部の歴史的な都市空間や建築物について、時代背景を手がかりとしながら読み取っていくことが本発表のねらいである。
砂や泥炭、粘土が重ねられた地層、地表から1.5m下に流れている地下水、こうした軟弱な地盤上にアムステルダムの町は作られた。アムステル川上にダムを作り、海岸線や川に沿って堤防(ダイク)を築いて自分達の住む土地を守っていった。
アムステルダムの町が産声を上げたのは1275年。それ以前よりアムステル川を往く船に対する通行料によって町の経済を維持させていた。その後アムステルダムはハンザ同盟の中継地点として栄え、主に北ヨーロッパとの交易を行った。ダム上に作られたダム広場では取引や催事が行われた。
町が栄えていくにつれて移民が増えたので、数回にわたって町は拡大した。16世紀後半、アムステルダムに転機が訪れる。当時の支配国スペインとオランダとの80年戦争によってアントワープがスペインによって陥落された際、アントワープの商人達がアムステルダムへ逃げてきた。その頃のアントワープはヨーロッパ諸国都市間の交易の中心地だったので、交易に関するノウハウやネットワークがアムステルダムへ移植されたのである。アムステルダムにとって新しい交易ルートが開かれ、港町として大きく飛躍した。そして1602年には連合オランダ東インド会社が設立され、「黄金の17世紀」が幕を開けた。
いっぽう、移民の急増によって新たな住空間の確保が急務となった。17世紀には2回の拡張が行われ、ルネサンス思想をもとにした理想都市の考え(円状都市論)がアムステルダムの拡張計画へ反映された。ダム広場を中心にして同心円の3本の運河が新しく掘削され、富裕商人たちの住む地区や職人たちの住む地区(ヨルダン地区)が作られた。2回目の拡張によって現在の扇状の都市が完成することとなった。
この拡張時に誕生した都市空間は非常に整形なものとなり、各街区は京都のように短冊状に敷地割がなされ、市民は市から敷地を購入して住宅を建設した。富裕商人たちの住む街区は、間口およそ6m、奥行およそ50mを1単位とした敷地から構成されていた。いっぽう、ヨルダン地区は間口4〜5m、奥行8〜9mを1単位とした敷地から構成されていた。これら2地区の違いは、建物裏の空間利用の仕方である。前者の地区では裏を空地とするように決められていたため、裏への増築は不可能だった。一方で後者のヨルダン地区ではそうした規制が無かったために裏への建て込みは激しく、後年になってスラム化するケースが多かった。
非常に整形な都市空間が作られた17世紀に誕生した地区とは違い、それ以前の都市空間は中世都市の特徴が色濃く、「不整形」な街区で構成されていた。そこに建つ建築物も台形状のプランを持つ場合もあるなど、土地(干拓地)の形状に影響を受けている場合が多い。
現在も残る運河には物流のための船に変わってレジャーボートが絶え間なく行き交っている。こうした楽しみを忘れない市民達がいる限り、アムステルダム市内の運河は今後も行き続けるだろう。また、中心部に建つ建築物も歴史的価値を見出され、厳しい規則のもと維持されている。隣り合う裏庭を合体させて大きく快適な裏庭へ変えてしまう例もあり、アムステルダムの柔軟さに常に驚きと新鮮さを感じずにいられないのである。
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[アムステルダムの旧市街の都市形成過程] |
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[17世紀時のアムステルダムの都市計画図] |
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[不整形と整形な街区] |
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[17世紀にできた整形街区] |
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[17世紀にできた性格の異なる街区]
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