「北京の公衆便所の成立過程とその維持管理」 木塚健太(東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学専攻修了)
背景
北京市では、住民は各戸に個別便所を設置しておらず,いくつかの家族で路上の公衆便所を共同利用している.それら公衆便所の多くは古く,汲み取り式で,手洗い所もないものが多い.経済発展を遂げた中国の首都北京において,住民達が公衆便所を共同利用しているというシステムは技術不足や政府の認識が遅れていると捉えることは正しい理解ではない.そこには日本を初め他先進国とは異なった社会的背景が関与していると考えられる.
屎尿回収システムの変遷
中華人民共和国が成立した1949年以降,社会主義への移行に伴い,以前はギルドが担当していた屎尿処理サービスは北京市による公共サービスとなった.
1960年代に “厠所出院(便所が庭から出る)”が推し進められ,北京市内に公衆便所が胡同沿いに建てられた.これに伴い四合院内にあった便所は埋められ,居住スペースとなった.
現在はバキュームカーが各公衆便所から屎尿を汲み取っているが,住民の利用は依然として変っていない.現在の公衆便所の利用システムは1960年代に形づくられたといえる.
公衆便所の清掃・管理について
今回の調査対象地区には新しく質の良い「2類」と旧式で古い「3類」公衆便所があった.
3類公衆便所では、午前・午後の一回ずつ公衆便所を清掃して周る.具体的には,壁や床などに洗剤を撒き,水で流す.その後,汲み取り式便所であるため便器に溜っている屎尿を洗い流し,地下の貯糞槽に流し込む.
毎回壁なども丁寧に洗い流している.
2類公衆便所には管理人室があり,夫婦などがふたり一組で住み込みで管理している.基本的に5:30−24:00など定められた時間に清掃・管理を担当しているが,一日の清掃回数の決まりはなく汚れる度に掃除するため,非常に清潔に保たれている.
北京市の今後の公衆便所に対する政策
北京市は,今後も3類公衆便所を2類公衆便所に更新する方針である.その際に公衆便所に管理人を置く理由として1)北京に来る就労人員の宿泊所の問題を解決するため2)就業の問題を解決するため3)2級公衆便所の高い衛生的要求を満たすためなどが挙げられた. まとめ
本研究では,まず北京の公衆便所の成り立ちについて明らかにすると共に,現在の利用・管理状況を整理することができた.
一見すると先進国都市部において奇妙とも思えるシステムは社会環境に合わせた合理的なものであった. |
|
|
[研究背景2] |
|
[公衆便所の清掃・管理] |
|
[公衆便所の清掃・管理] |
|
[清代末期から中華人民共和国にかけてのし尿回収プロセス] |
|
[現在の住居区域の高密状況(東四地区と鮮魚口地区)] |
|
|
「東京の水上生活者」 高橋亨(法政大学大学院工学研究科建設工学専攻修了)
かつて水の都といわれた東京にも、水上生活者がいた。彼らは船で生活をしながら、都市機能であった舟運を担っていたのである。
水上生活者の仕事は、多くが艀(はしけ)で、貨物線の積荷を小型の船に移し、荷揚げ場や直接工場に輸送することであった。彼らは、仕事で使っていた船に、セジと呼ばれる二畳から三畳の広さの居住空間をつくり、家族とともに生活を営んでいた。このような水上生活者は、昭和10年の水上警察署の調査で東京に18,286人7,650世帯いたことが確認されている。
艀が、特に密集する船だまりがある地域を、当時の地図で調べていくと、貨物線駅、倉庫群、工場地帯、埠頭の4つのタイプの空間構造に類型化できた。貨物線駅の事例は、神田川沿いの飯田橋駅や秋葉原駅がある周辺や隅田川駅などがあった。隅田川駅は、舟運と密接な関係をもち、掘割とホームが隣り合うように配置されていた。艀から鉄道にすばやく荷の積み替えができるようにしてあったのである。水運と陸運はうまく共存し、水上生活者は発展する都市を支えていた。
水上生活者に関する施設には、水上警察署や水上生活館などがあった。水上警察署は、通常業務とは別に水上生活者の世話も行っており、彼らと深い関わりを持っていた。水上生活館は、水上生活者の戸籍登録などの事務から結婚式、診療など幅広く、彼らの支援をしていた。また、日ごとに定繋する場所を変える水上生活者に対応するため、船で河川を航行し、無料診療などをしていた水上民生船なども存在していた。
現在も都市の水際に水上生活者が生きた空間の面影は残っている。特に、月島川には、たくさんの船が係留して、都市風景に奥行きをだしている。このような河川は、現在ではほとんど見られない。河川を管理する管轄が違うことにより、河川それぞれで船の係留数や使われ方に違いがあるのである。朝潮運河にある木材会社は、地先水面の権利と港湾局から営業の許可を得て、作業場として河川を占用している。この作業場には、護岸や川底に固定されている部分と、50cm角の巨木によって水辺に浮いている部分があり、アジアの水辺空間のようであった。
本稿では、水上生活者と彼らが最も多く存在していた、近代から昭和初期にかけての東京の水辺の空間構造を明らかにし、それを現在に最も受け継いでいる地域である、佃、月島、勝どきの水上空間利用と都市構造とその形成過程を明らかにした。
|
|
|
[船で暮らす水上生活者] |
|
[東京における船舶係留地と船数(昭和7年)] |
|
[水上生活者のための施設] |
|
[月島に係留する船(2004年)] |
|
[朝潮運河に浮かぶ木材会社(2004年)]
|
|
|