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歴史プロジェクト第5回研究会
日時:2005年2月19日 15:00〜19:00
場所:法政大学市ヶ谷校舎80年館7階大会議室
※この研究会の内容は報告書としてまとめられました[詳細] |
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「イスラーム庭園と住居における水空間について」 深見奈緒子(東京大学東洋文化研究所)
622年、アラビア半島で興ったイスラーム教は10世紀には中央アジアやイベリア半島にまで広がっていった。急速に世界に広がっていったイスラーム教は様々な民族、風土の中で多様なイスラーム文化を形成していった。ではイスラーム文化としての共通性とは何なのであろうか。乾燥地帯に興ったイスラームにとって水は当然貴重な物であり、水はアッラーの力の証明であり、川はアッラーの恵みとされてきた。このような水に対する聖性に着目し、イスラーム文化の中に見る水空間について都市、庭園、建築を通して考察する。
迷路状の街路網、袋小路など複雑に入り組んだ居住区域をもつイスラームの都市は、有機的都市、非定型都市であるといえる。それぞれの都市には個別の歴史があるが、ある種の形態的類似性が、北アフリカからインドに至る広域で、近代以前に生じていたことは認められる。町を管理するための市壁と市門、その門から中心に向かって延びる主要街路と町のセンターとしての市場と金曜モスク、居住区域の公共空間としてはハンマーム、水汲み場、階段井戸といった水施設がある。これらの共有空間を中心に袋小路が発生し、中庭式住居に至る。為政者の住まいは古代専制国家では都市の中心に置かれたが、中世、近世においては都市の縁部にその宮殿を建てられることが多い。これにはトルコやモンゴルといった遊牧系の支配者の影響が見られる。港、堰、橋、貯水、上水道など治水事業は為政者の責務として重要な事柄であった。
このようなイスラーム都市が広範囲に、しかも長期にわたり安定的に継続された要因は何であろうか。まず、乾燥地域いう自然環境があげられる。そして、中世、近世という一種の安定期であったこと、都市管理者としての支配者層と受益者としての市民層の関係性、イスラーム特有のワクフ・システム、商人などがグローバルなネットワークを持っていたことで技術や審美観も広域にわたり伝達されたことも要因といえる。
イスラームにおいて庭園とは人工的でありながら自然と深く関係する快適な空間である。乾燥地帯の過酷な自然環境の中、イスラームの緑豊かな庭園は人間によって温和に変換された擬似的自然空間であり、理想空間であり、イスラーム教の聖典コーランの描く天国(パラダイス)のイメージなのである。庭園は有機的形態をとる都市とは違い、整形に囲われている。囲い込むことは天国に通じるのである。庭園の種類としては四分庭園とそのヴァリエーション、階段庭園などがある。四分庭園は整形な囲い地を十字に灌漑水路網が流れ、水の貴重な地での効率の良い給水になっている。庭園内には高木と灌木、草花を植え、木陰を作り出し、果実や芳香を生み出している。樹木は生命の象徴であり、緑はイスラーム教の祖ムハンマドの色である。このようにイスラームの庭園は囲いの中で水と緑を制御することで「理想の空間」=「コーランに描かれた天国」を作り出しているのである。
では、イスラームの中庭式建築はどうなのであろうか。中庭と庭園の共通性と異質性についてみてみる。まず中庭は庭園ほど大きくはない。そして中庭の機能は庭園がもつ非実用的な快適性ではなく、機能性である。しかしその理想はやはり乾燥地帯における天国であることは共通している。中庭住居は乾燥地での稠密居住のための住宅様式であり、夏と冬の住み分けなど機能的な空間になっている。中庭式建築は住居や宮殿だけではなく、モスクや学校、商館と居住系の公共建築にもみることができる。中庭空間の発展は室内と中庭をつなぐ半屋外空間の発展につながっていった。また宮殿においては門を入って、いくつもの中庭を介することで王のいる玉座の間にたどり着くといったように中庭を媒介として場の重要度を増してゆく。王宮のハレムでは正妻の中庭は他の妻たちの中庭に比べ大きく、中庭が後宮での力関係を表している。
以上のように、乾燥地域ということがイスラーム文化の形成に大きな役割を果たしている。過酷な外の自然環境に対して、内に囲われた理想郷としての庭園を作り出し、希少な水に対する憧れが水の聖性を生み出し、快適な空間創出のために必要な水に対する知識を蓄積してきたのである
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[イスラームの伝播] |
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[水施設] |
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[イスラームの庭園] |
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[中庭式住居] |
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[イスラームの世界観] |
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「『生活空間と聖なる泉』−フランスの場合−」 平岡忠
フランス国内に多数存在する聖なる泉とはいったい何か、人々は聖なる泉で何をするのかを考察する。
まず聖なる泉の外観についてみてみると「ブルターニュ地方のもの」と「それ以外」という2種類に分けることができる。フランス北西に位置するブルターニュ地方は16世紀にフランスに組み込まれ、それ以前のケルト文化が色濃く残る土地である。このブルターニュの聖なる泉の外観には一定の特徴がある。泉自体はケルト時代に遡るものもあるが、装飾の点ではほとんどが16世紀以降の教会建築を模したものである。また、ほとんどの場合、湧水口に直接つくられ、水源から離れた場所に灌漑されるものは少ない。
一方、ブルターニュ以外の地方ではその外観に一定の特徴はみられない。全体の2割は装飾性がまったくみられない聖なる泉である。しかし、泉の重要性は装飾とは関係しない。では普通の泉と聖なる泉の違いとは何なのであろうか。
泉の聖性を考える上で重要な事柄としてその場所性があげられる。水の効果は泉から離れるとその効力が途端に弱まるようである。先に述べたようにブルターニュにおいて特に顕著にみられる。聖なる泉から出てきた水は泉の中でも湧水口に近いところだけ神聖視され、そこから先は洗濯場になってしまう泉もみられる。もう一つの場所性として聖なる泉は集落の縁のような場所、日常の生活圏と外部の境目といえる場所にある。聖性を生む重要な要素がこの距離感である。
次に聖なる泉で人々のおこなう非合理性的な行動とその理由を考察する。泉に求められている機能は2つ、「癒し」と「予言」である。まず、聖なる泉の「癒し」について考察する。多くの場合、人々は聖なる泉の癒しに「即効性」を求める。「軽減」や「緩和」ではなく、「劇的」で「完全」な治癒を求めているのである。ある病の癒しに専門特化している聖なる泉が全体の6割以上を占める。つまり病を治すには専門の泉を探す必要があるのだが、昔は病気の名前は聖人の名前で呼ばれており、病と同じ名前のついた泉に行けば間違いないのである。
ではどのような病に効く泉が多いのであろうか。赤ん坊や子供に関する病に効く泉は全体の2割もある。大人に比べ体も弱く様々な危険にさらされている点で聖なる泉の需要度が高い。その他、眼病によく効く泉も多い。池や川の水よりも常に湧き続ける泉の水の方が水質が良く、医療技術の発達していなかった時代に一種の目薬の役割を果たしていたことは容易に想像できる。眼病に効く泉で行われる行為には二つの特徴をみることができる。ひとつは光の象徴である蝋燭を灯すこと。もうひとつは泉のそばにある小石を眼にこすりつけること。これは泉の聖性が場所に宿っていることを思わせる。
次に予言であるが予言される事柄は二つだけである。「結婚相手の見つかる可能性」と「死の接近」である。結婚を占う場合も特定の媒介物(メディアム)がある。留針である。昔、服にボタンがなかった頃、針を使って服や帽子を固定しており、「留める力、征服する力」つまり「魅惑する道具でもあり、護身の道具」であるのだ。その年のうちに結婚できるかどうかは泉に投げ込んだピンが沈むことなく水面に浮かぶことによって示される。19世紀頃からは、衣服に留針を使うことも少なくなったため、ピンの代わりに硬貨が使われるようになったのである。ブルターニュ地方ポン・ド・ビュイ・レ・キメルクにある聖レジェの泉は死についての予言をする泉である。予言の方法は、泉に向かう途中で小枝をもぎ取り、皮をむき、それで小さな十字架をつくり、その十字架を水面に落とす。ぴたっと止まるまでにくるくると何回も回れば数年間は死ぬことはないというわけである。
聖なる泉について言える確かなこと、それは村人たちにとって他のモニュメントとは比べ物にならないほど精神的な関わりが深い存在ということである。泉は単なる「もの」ではなく、村の生活や記憶に密接に結びついた精神的な存在なのである。現代の人々が癒しを求めるかぎり、泉への熱狂は消えることはないだろう。
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[聖なる泉の分布] |
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[ブルターニュ地方の聖なる泉] |
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[聖レーヌの泉] |
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[ルルドの地図] |
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