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歴史プロジェクト第3回研究会

日時:2004年11月25日(木) 17:30-20:00
場所:法政大学 市ヶ谷ボアソナード・タワー 25階研究室B

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『東京市における明治・大正期の河川政策と舟運』 ロドリック・ウィルソン
東京の産業化によって東京の市内舟運は如何に移り変わったか、特に、明治初期からの内務省の河川政策と東京都市計画の中に舟運はどんな位置を占めていたか、また、どんな影響を及ぼしたかを明らかにした。
明治期の内務省河川政策
富国強兵を目標とする明治政府はインフラ整備の重要性を唱え、初代内務卿の大久保利通が舟運優先の低水工事と呼ばれる河川政策を内務省の基本方針とした。その後の第一・二次治水計画は、治水中心の高水工事で、川舟の航行が困難になった。内務省が内陸水運を放棄した一つの理由は、明治10年代後期からの鉄道の整備による河川舟運の必要性が低下したことであったが、その衰退の過程は川と河岸場によって異なる。例えば、明治22年からの二年間に、東京付近の荒川と新河岸川の沿岸にあった河岸場で扱った貨物はやや増加していることが確認できる。鉄道の開通以降、関東平野の舟運は衰退していったと一般には指摘できるが、その過程は一様ではなく、輸送物資や場所によって状況は異なっていたのである。
川と東京の都市計画と東京市内舟運
明治10年代に、内務省に就任した東京府知事によって提案された都市計画(楠本正隆案や松田道行案など)では、水運の位置を強調していることが注目される。また、市区改正計画においても、8つの河川の新設、22の河川の改修が計画に盛り込まれ、その他にも、様々な舟運に関する項目が含まれていた。
当時の東京市内舟運の実状
大正10年3月5、6日の調査をまとめた『東京市内外河川航通調査報告書』には、1日に2万隻以上の船が東京市の内外で確認されており、そのうちの78パーセントが東京市内の船だと書かれている。こうした調査が行われた背景には、明治30年代からの産業の繁栄があった。明治後期から大正期にかけての東京市内の工場立地からも、工場は舟運に頼っていたことが分かる。将来の都市計画に舟運が重要であるという考えがあったのである。また、貨物駅についても、駅を建設する際、運河をひき、河岸を設けていることから、鉄道と舟運は相互補完的な関係であったと考えられる。最後に、東京と横浜の関係を国際航路の港としての側面から見ていく。当時の東京周辺の国際港は横浜だけであった。国際線の船舶は東京には入れず、艀の需要を増やす原因になった。このことは、舟運が相変わらず重要であったことを証明している。
結論
東京における舟運は、陸運を中心とした近代交通のインフラ整備によってなくなってしまったかのように考えられているが、近代の陸運の登場によって、むしろ舟運が活性化していったことが、当時の都市計画や河川政策から浮かび上がってきた。

[隅田川と工場地帯]
[明治10年代前半の都市計画]
[明治後期から大正期の工場地帯]
[貨物駅の分布]
[貨物駅の分布]

 

『東南アジアの水辺都市』 大田省一
ベトナムの北部にはハノイを中心とした紅河デルタ、南部にはホーチミンを中心とするメコンデルタがある。今回はメコンデルタの開拓地の調査結果を報告する。
ベトナムの都市には歴史的に都市と水辺空間との関係が見られる。ハノイの15世紀頃の地図から、伝統的都城の概念をもとに都市が作られたことが分かるが、蘇歴江と呼ばれる水路を朱雀大路に見立てる等、長安や平安京とは様相を異にしている。また、紅河と蘇歴江の交わる場所には米市場が置かれ、交易上の結節点として重要であったことが分かる。植民地都市として1860年に成立したサイゴン(現:ホーチミン)も、運河を引き込んだ都市計画によって作られた。現在は、ハノイ、ホーチミンとも、衛生上の問題や水運の衰退によって、都市内部の運河は埋め立てられている。水上交通とともに生きたまちは、やがて消えていったのである。
これらに比べ、メコンデルタの開拓地には、今でも水運に頼る集落が数多く存在する。メコンデルタのプランテーション開拓地は運河を開削し、それに沿ってリニア状に住宅地を配した後、後背地を開拓するというシステムによって建設される。また、非農民の大土地所有で、北部からの計画的な大移民を行い、労働力を確保している。プランテーション開拓地を理解するにはこのように、運河建設、商業的大規模農業、移民による労働力確保の3つの視点が重要になる。
ここからは具体的事例として、ロンアン省カインハウ行政村とカインフン行政村を取り上げる。18世紀に成立したカインハウ村は、ホーチミンから延びる国道1号に面する。この辺りの集落としては比較的古いもので、宗教施設や市場などのコアが村の中に存在している。一般住宅は、先祖祭祀空間と生活空間が分離されており、優れた伝統的木工技術が見られる。1989年成立のカインフン村は、カンボジアとの国境付近にある農業経済の増大を目的とした新経済村であり、カインハウ村からの集団移民による村である。ここでは、行政による計画原理に則り、旧来の組織を無視した開発が行われているため、農民の入植が遅れている。一般住宅は、役所の標準設計によるRC造住宅、もしくは未熟練労働力による簡便な造りの住宅がある。
カインハウ村とカインフン村の住宅に見られる差異は、材料の制約などの物理的な面と定住意識の有無などの住民の心理的な面から説明ができるのではないかと考えている。また、両村とも運河が骨格となってできた集落ではあるが、水と生活との密接なつながりは見られなかった。

[ハノイの礎となる15世紀の昇龍]
[自然河川と運河の境界(ThoiLai村)]
[カインハウ村の住宅内部(生活空間から先祖祭祀空間を見る)]
[カインフン村]
[標準設計によるRC造住宅]

 

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