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歴史プロジェクト第1回研究会

日時:2004年6月30日 17:00-19:30
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス 80年館大会議室

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『ソウル清渓川の再生』 朴賛弼
1394年の遷都以来、都城の中央を東西に流れる清渓川は、風水思想を背景としながら、地理的、政治的、社会的、文化的に北の王宮や宮殿、高級官僚住宅地と南の中・下級官僚、庶民住宅地とを区分する象徴的な境となってきた。また、遷都から1902年に至る間、石積みや柳の木を植えることにより護岸を護り、浚渫を1年から2年に一回行うという治水事業が王により行われてきた。その後、1920年代に農民がソウルへと流入し、彼らは清渓川沿いに不法建築を建て住み着く。この時代から清渓川沿いは、ソウルを代表する不衛生で高密なスラム街へと変容していく。とりわけ問題になったのは、河川の氾濫とそれにより広まる伝染病といった衛生問題であった。1958年から1978年まで、段階的に汚染された河川に蓋をし、さらに都市交通の便を良くするために段階的に清渓川の覆蓋工事が行われ、1967年から1972年には韓国の高度経済のシンボルとしての高架道路が建設された。こうして、総延長約6.0km、幅員50〜80mの覆蓋道路と、総延長約5.8km、幅員16mの清渓高架道路が建設され、清渓川の河川としての意味は、完全に失われた。
2002年7月に清渓川復元事業を選挙公約の第一に掲げ、ソウル市長に就任した李明博は、ソウル市民80%の賛成のもと、2003年7月から覆蓋道路と高架道路の取り壊しと清渓川の復元という大工事に着手した。この復元事業には、4つの利点がある。第一に、老朽化した覆蓋道路と高架道路の構造物の安全問題の抜本的な解消。第二に、巨大な下水道は、都市型の自然河川へと生まれ変わり、ソウル市民に水辺の憩いの場の提供。第三に、清渓川の復元は、広通橋や水標橋などの復元や、かつて水辺で行われていた様々な文化行事の再現にも通じ、ソウルの歴史と文化の回復。第四に、朝鮮戦争以後、開発が遅れていた清渓川地域の産業構造を改変し、さらに都心経済活性化である。復元工事に先立って、既存の覆蓋道路と高架道路の交通量対策として、迂回路やバスといった公共交通の拡張が行われた。さらに、騒音被害や立ち退きを要求される周辺で働く商店主や露天商への経済的な支援や移転地の斡旋が行われた。
復元後の清渓川には、洪水対策としての側溝と広通橋や水標橋という橋が復元され、さらに親水空間が生み出される。また、復元後の清渓川を流れる水は、現在のところ地下水を利用する予定であるが、十分な水量を確保できていない。それゆえ、送水管で水を清渓川に循環させる計画となっている。最終的には清渓川を一つのシンボルにソウル都城全域の環境を改善させ、清渓川に必要な地下水を復活させるという。今後は、清渓川の復元をきっかけにして、ソウル全体の風や水と共に生きる環境都市としての再生を期待したい。

[17世紀頃浚渫工事]
(開川,ソウル歴史博物館)
[工事現場]
(2004年6月撮影)
[復元前]
(2003年 清渓川復元推進本部)
[復元後]
(2003年 清渓川復元推進本部)
[文化財発掘]
(2004年3月撮影)

 

『大阪臨海部における渡船場の現状』 木下光
木下先生には、大阪臨海部に今も残る8ケ所の渡船場にについて、その歴史的な背景、利用目的、利用実態を含めた様々視点からご説明いただいた。
大阪市臨海部では、依然として複数の河川が流れ込むデルタ地帯に明治期以降形成されてきた住宅地域と工業地域が複数の河川が混在する地域特性がある。ここには、河川を中心として住宅地域(内陸部)ー工業地域・倉庫群(沿岸部)ー川ー工業地域・倉庫群ー住宅地域が帯状に繰り返される空間構成が今も色濃く残っている。これは都心から港湾部に近づくほどに住宅地域がなくなり、工業地域が占有するという一般的な臨海部の空間構成とは対照的なものである。
大阪市臨海部には多くの居住者が生活しており、河川沿岸部には工場、倉庫が建ち並び、その工場、倉庫のある内陸部まで貨物船は入港している。それゆえ、河川の交通、陸上の交通といった2つの要件を満たすべく取り入れられたのが十分な桁下空間を確保した巨大な橋梁であった。桁下の高い橋梁では、河川をまたぎ地域間を移動する際、徒歩や自転車で橋梁を利用するためには困難である。その結果、現在でもこの臨海部の住民にとって日常生活の移動手段として、渡船場の必要性が極めて高い。さらに、臨海部は自転車による移動がしやすい平坦な地形である。したがって、多くの住民が自転車を伴って渡船場を利用しており、渡船場利用の目的は多岐に渡り、通勤や通学だけでなく、買い物に代表される様々な日常生活に関わりの深い利用がみられる。これは渡船場が生活道路と同じ位置づけで利用されていることを示す。
「河川部の渡船場」の周辺地域では共通して住宅と工業が混在し、河川沿岸部に工場、倉庫群はあるものの、渡船場の両側から住宅地域が近い空間構成である。そのため渡船場を中心とする半径1・圏という自転車が適当と考えられる範囲に利用者の移動が分布し、幅広い層の人々に様々な目的で利用されている。「港湾部の渡船場」ではそれぞれ渡船場周辺が島状の地域であり、周辺地域の空間構成に「河川部の渡船場」のような共通性がないため、利用者・利用目的において個々の地域特性の影響をより受けている。
今後の大阪市臨海部のあり方を考えていく上で、8ヶ所の渡船場の利用実態は、非常に示唆的であるといえる。近年、利用者の再び増加しだした渡船場において、実態調査の回答では極めて少数意見であったものの休憩場所、散歩場所としての利用が挙げられていた。地域間につながりを持たせるきめ細やかなネットワークを構築する交通手段してだけでなく、ヒューマンスケールの公共空間として渡船場を考えていく必要もあるのではないだろうか。

[表紙]
[大阪臨海部]
[渡船場]
[利用者移動線図]
[図版]

 

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