【お知らせ】「玉川の語源を探る夕べ」を開催します 2019年8月17日 (土)

【お知らせ】「玉川の語源を探る夕べ」を開催します 2019年8月17日 (土)

  • 2019年07月29日
「玉川の語源を探る夕べ」チラシ(表).jpg

玉姫伝承
その昔、甲州と武州の境を戦に敗れて鎌倉を目指して落ち延びる玉姫一行があった。難儀する一行は小菅で村人にかくまわれた。旅を続ける間に、玉姫は一心に尽くす家来の若者の大青と想いあうようになった。ある日、追手に追いつかれ家来たちは斬られ、玉姫と大青は池に身を投げた。すると玉姫は大蛇となり大青は狼となって追手を嚙み殺した。二人はその地で仲良く暮らしていたが、ある年の大雨で池は壊れ、大蛇は流されてしまった。狼となった大青は後々の時代まで玉姫を想って哭き続けたという。この大蛇の流れた川は玉のように流れる清流で将軍様に献上した名水だった。そしてこの川は玉姫の名を取って玉川と呼ばれるようになった。(要旨)

この物語は、山梨県小菅村余沢の横瀬家に鎌倉初期から口伝で伝えられてきた。
玉姫の父親は畠山重忠とされている。
玉川の語源説に新たな視点を与える伝承である。

■開催日時:2019年8月17日(土)18:30~
■会場: 二子玉川ライズ・ルーフガーデン5階 原っぱ広場
 < 東京都世田谷区玉川1₋14₋1 東急田園都市線・大井町線「二子玉川駅」下車
   蔦屋横のA1エレベーターよりアクセス>
■入場無料
■荒天時中止
■問い合わせ先:神谷 博 suikei@jcom.zaq.ne.jp

■プログラム
<第一部>18:30
 玉川源流に伝わる玉姫伝承
 神谷 博/法政大学兼任講師

<第二部>18:50
 創作神楽「玉姫」/珊月花

<第三部>19:10~20:00
 対談:玉川の語源と玉川文化
 小野一之/府中市郷土の森博物館館長
 小林ふみ子/法政大学文学部教授

【講師プロフィール 】
◆小野一之(オノカズユキ) 
 府中市郷土の森博物館館長
 中央大学大学院文学研究科 前期博士課程 修了
 専門は日本古代史。著書に武蔵府中くらやみ祭 』他。

◆小林ふみ子(コバヤシフミコ)
 法政大学 文学部 教授、法政大学江戸東京研究センター研究員
 東京大学文学部国文学科卒、人文社会系研究科博士課程 修了。大田南畝
 『七観』をめぐって-詩文と戯作」などで 日本古典文学会賞受賞。文学博士

◆神谷博(カミヤヒロシ)
 法政大学兼任講師(環境生態学) 建築家 景観アドバイザー
 法政大学建設工学科修士課程修了
 法政大学エコ地域デザイン研究センター・江戸東京研究センター客員研究員。
 多摩川流域懇談会運営委員長

【演者プロフィール 】
◆珊月花/ハナヲ 、月弧、さんごによる神楽ユニット
◆ハナヲ/東京藝術大学卒 雅楽、現代音楽、作曲、編曲
◆月弧/ネイティブアメリカンフルート奏者、作詞、作曲
◆さんご/舞踏家 Sango Saria ベリーダンス 占い

映像協力:織田理史
総合プロデュース:はるく

主催:法政大学 エコ地域デザイン研究センター・江戸東京研究センター
協力:二子玉川ライズ
後援:多摩川流域懇談会

玉川の語源考(神谷 博)
1.多摩川の表記
万葉集の東歌に「多麻河」が見られ、同時代に 下流部の丸子の渡しあたりは「石瀬河」とも記されており、上流には「丹波川」がある。多摩の語源は明らかでなく、「多摩の語源考」(鈴木樹造著)によれば、川の名が先にあって郡の名がついたとしており、多摩・タバ説や多摩・タマ説など多く紹介している。このうち、多摩・玉説では、霊、美しいもの、すぐれているもの、などの見方を紹介している。諸説あるものの、これが定説というものはない。

2.調布玉川惣画図
江戸時代に玉川源流の記載が出てくるのは、関戸の名主であった相沢伴主による「調布玉川惣画図」である。天保10 年( 1839 年)相沢伴主が玉川の源流を訪ねようと思い立ち、源流から河口までの下絵をつくり、これを絵師の長谷川雪堤が絵図に仕上げた。ここに小菅村の玉川が源流として記載されている。江戸末期であり、玉川という名は既に定着して多くの文化、文芸に登場している。「調布玉川惣画図」の原型は、伴主の父である相沢五流が描いた「玉川勝蹟図」にあるといわれている。大田南畝(蜀山人)が文化6 年( 1809 年)に玉川の堤防検分で関戸に来た際に五流に依頼したという。伴主は、五流の影響もあって玉川の源流を探る興味を持ったものと思われる。伴主に少し先立つ1825 年には、仲田惟善による「東都近郊図」が出版されている。江戸近郊が行楽の対象として人気となり、その案内地図として描かれている。ここには玉川について、「水源は甲州一ノ瀬といえる。幽谷より出でて、武州秩父郡の山水が落合い、多麻郡羽村あたりまでを多波川という。それより下を玉川という」とある。ここには玉川上水も描かれていて 多波 川は羽村までという認識ともとれる 。 伴主はこれとは別に玉川と名の付く源流にたどり着いて おり、 羽村から先の多波川ではない川筋を遡り、玉川の源流を探索して小菅の玉川を突き止めたのであろう。

3.いつから玉川か?
鎌倉時代に東国政権が出来上がったが、ほどなく南北朝時代の混乱を経て、足利政権が出来上がった際には京都中心の時代に戻り、室町文化が栄えることとなる。これが家康によって東国政権の実現が果たされると、江戸が中心地となり、多摩川水系が重要な役割を持つようになる。多波川や六郷川、玉川など、地域ごとに違う名で呼ばれていた川を武蔵国府の前を流れる玉川として家康の時代に一つの名前として統一して表記する必要が生じたのかもしれない。民間ではどの範囲を、いつごろから玉川と呼んでいたのか。玉姫伝説に残る玉川は、池の平からの流れであることから、現存する小菅村の玉川であることは確かである。玉川上水が引かれたのは 1653 年のことであるから、このころには 既に 玉川であったこと になる。 玉川から分水したのであるから、 取水した羽村の 上下流も玉川だったといえる。

4.六玉川の一つとして有名に
玉川が盛んに取り上げられるようになったのは、江戸文化が爛熟し始めて、江戸の文化を高めていこうという機運の中で清流としての玉川を売り出す意図もあったのではないか。六玉川は、全国の代表的な清流として和歌の歌枕や浮世絵の題材となった。「山城井出の玉川」「近江野路の玉川」「摂津三島の玉川」「陸奥野田の玉川」「紀伊高野の玉川」と並び称して「武蔵調布の玉川」となっている 。 万葉集に歌われたのは「多麻川にさらす手作りさらさらに何ぞこの児のここだ愛しき」とあり、多麻川と表記されている。 江戸時代に あえて玉川と表記することを望んだとしたら、玉川であることに何らかの積極的な価値が必要だったからと思われる。

5.玉姫の玉川
江戸時代の玉川下流部は六郷川であり、六郷用水は家康の初期の江戸づくりにおいて重要課題だった。江戸初期にはまだ下流部が六郷川、中流部が多麻川、上流部が丹波川だったと思われる。江戸後期の相沢伴主の時代には、それが小菅村から河口までを玉川と記載するようになっている。玉川は、多摩川の美称として玉石が多くて清流であることから後世に呼び替えられた、という説もあるが、近年に玉姫伝説という民話が発掘されたことから、玉川の語源は小菅の玉川であり、その名は玉姫からとられたという 説も成り立つと思われる 。

【開催報告】2019年7月23日「神田明神:江戸東京文化講座(第8回)」

【開催報告】2019年7月23日「神田明神:江戸東京文化講座(第8回)」

2019年7月23日(火)、神田明神文化交流館にて「神田明神:江戸東京文化講座」の第8回目が開催されました。第8回は福井恒明法政大学教授が「東京の文化的景観―江戸城外濠と葛飾柴又」というタイトルで講演を行いました。
 生活・生業と風土が影響しあい形成され、維持されてきた「文化的景観」は、都市化と対極的な言葉として多く用いられていますが、今回の講演では、都市部における文化的景観を解釈するためには何が必要かということについて、これまで福井教授の携わってきた江戸城外濠や葛飾柴又を例に取り考察を行いました。
 そして、都市部の文化的景観を理解し共有するためには、見えにくくなっている社会基盤の存在や地域の担い手の存在を浮かび上がらせ、それらの価値を発信していくことが不可欠であると結論づけました。

 本年3月より8回にわたって開催してまいりました「神田明神:江戸東京文化講座」は今回を以て終了となりました。全8回で延べ415名の方々にご参加いただきました。ありがとうございました。

【開催報告】2019年7月11日「神田明神:江戸東京文化講座(第7回)」

【開催報告】2019年7月11日「神田明神:江戸東京文化講座(第7回)」

2019年7月11日(木),神田明神文化交流館にて「神田明神:江戸東京文化講座」の第7回目が開催されました。第7回は川添裕 教授(江戸東京研究センター客員教授,横浜国立大学教授)が「力持の流行と神田明神の力石」というタイトルで講演を行いました。
 神田明神の境内にもある「力石」(ちからいし)を題材に,江戸のまちに流行した力持(ちからもち)について十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん)の『遊歴雑記』(ゆうれきざっき)や歌川国安の錦絵を例に考察を行いました。
 「力石」は,古い民俗では霊的なものとして扱われていたが,近世後期の都市ではもっぱら力試しに用いられるようになり,「力石」を持ち上げることが次第に娯楽化,遊戯化,曲芸化していきました。「力持」文化の醸成される文政年間に興行で賑わう様子や,力石だけではなく酒樽や米俵を町の若者たちが持ち上げる姿について解説を行い,力持が江戸のまちと深く結びついていたことを明らかにしました。

 神田明神「江戸東京文化講座」は全8回,多様なテーマで江戸東京を掘り下げてきました。次回が第8回(最終回)です。ぜひご参加ください(事前予約必要:受講料必要)。
  詳しくは下記をご覧ください(神田明神文化交流館のサイトへリンクします)。
https://cocoro-k.co.jp/events/edotokyo
【今後の予定】
第8回(最終回)2019/7/23(火)「東京の文化的景観ー江戸城外濠と葛飾柴又」法政大学教授 福井恒明

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【開催報告】2019年5月14日 ローザ・カーロリ教授講演会「江戸・東京における佃島の誕生と発展(The origin and development of Tsukudajima in Edo-Tokyo)」

【開催報告】2019年5月14日 ローザ・カーロリ教授講演会「江戸・東京における佃島の誕生と発展(The origin and development of Tsukudajima in Edo-Tokyo)」

019年5月14日(火),イタリアにおける日本近現代史研究の第一人者であり,江戸東京研究センターの客員研究員であるローザ・カーロリ教授(ヴェネツィア・カ・フォスカリ大学)による講演会が法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー25階 研究所会議室5において開催された。氏のこれまでの沖縄史の研究からさらに幅を広げ、「江戸・東京における佃島の誕生と発展(The origin and development of Tsukudajima in Edo-Tokyo)」というテーマの発表が行われた。

デザイン:江戸東京研究センター R・A 邵 帥(ショウ スイ)

大きく以下の7つのテーマに沿って話が進められた。
1.佃島のユニークネス
2.佃島を作った森一族
3.佃島の誕生
4.水上空間としての:佃島とヴェネツィア
5.空間の概念と配置
6.佃島の信仰空間
7.江戸の名所としての佃島

近世初期の佃島の成り立ちに始まり、沽券絵図を用いて詳細な分析と考察を行い、水辺や信仰の空間と様々な角度から佃島の歴史を解き明かした。
多くの参考文献や資料が提示され、今後の佃島研究の課題についても議論され充実した講演会となった。

 

【開催報告】2019年6月27日「神田明神:江戸東京文化講座(第6回)」

【開催報告】2019年6月27日「神田明神:江戸東京文化講座(第6回)」

2019年6月27日(木)、神田明神文化交流館にて「神田明神:江戸東京文化講座」の第6回目が開催されました。第6回は小林ふみ子教授が「江戸狂歌の大流行-山の手でも下町でも神田明神社内でも」というタイトルで講演を行いました。

 江戸狂歌のルーツを初めてとして,異なる身分の人々が集い大衆参加型文芸として広がった狂歌グループの様子や,狂歌師たちのユニークな「狂名」,神田明神など各地で開かれていた狂歌の会の様子について多くの原資料を用いながら解説し,江戸時代天明期になぜ狂歌が大流行したのか,狂歌の持つ特性や時代背景などについて考察しました。

 神田明神「江戸東京文化講座」は今後2回にわたり多様なテーマで江戸東京を掘り下げていきます。ぜひご参加ください(事前予約必要:受講料必要)。
 詳しくは下記をご覧ください(神田明神文化交流館のサイトへリンクします)。
https://cocoro-k.co.jp/events/edotokyo

【今後の予定】
 第7回 2019/7/11(木)「力持の流行と神田明神の力石」法政大学江戸東京研究センター客員研究員 川添裕
 第8回 2019/7/23(火)「東京の文化的景観ー江戸城外濠と葛飾柴又」法政大学教授 福井恒明