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都心・ベイエリア、海外都市再生プロジェクト合同研究会

日時:2007年7月18日(水)18:00 〜 20:0013:00〜18:00
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎301教室

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「スターリンのモスクワ改造と水辺空間」
池田嘉郎(
新潟国際情報大学
 モスクワ市博物館では、50年代に発行されたゴーリキー公園で遊ぶ「生命力」や「向上」のイメージを持つ、健康な少年少女の絵が描かれた絵葉書の復刻版が売られている。これは、スターリン時代を単なる暗黒の時代と見ずに、再評価しようという動きがロシア国内でも出てきているということである。
 ヨシフ・スターリンは1930年代に入ると本格的に政権を確立し、社会主義という「新しい文明」の首都にふさわしいモスクワを改造しようとした。ただ、モスクワ改造に現れる建築やデザインは、スターリン指導部によって押し付けられたものではなく、建築家・芸術家やそこに生活する民衆の意思が混淆していたとも言える。ウラジーミル・パペルヌイはロシアの政治と文化の関わり合いを「文化1」と「文化2」に分けて論じている。「文化1」は、リベラルな時代を指し、平等の理念が掲げられ、建物もすべて水平方向に建てられていく。歴史や伝統を否定する意向が強いので、すべて過去を燃えつくすという意味で「火」の文化なのである。スターリン時代は「文化2」である。ヒエラルキーだとか、高い建物、エスカレーター等垂直方向が大事にされている。スターリン時代は抑圧的に見えるが、「破壊」の後に、まとめなおして造っていく時代であるから、「建設」「生命力」「向上」が大事になってくる。だから、存在の基礎である「水」が大事となり、運河や噴水がたくさん造られたのだ。それらの中から、モスクワ=ヴォルガ運河と、水都モスクワ、文化と休息の公園について注目してみていきたい。
 スターリンの時代は、一見大量逮捕や政治裁判など暗いイメージが付きまとうが、1930年代の都市改造の頃は、都市化が進み、大衆文化が花開いた時代でもあった。運河遊覧や公園利用の、一般向けの案内書がたくさん出版された。当時の『夕刊モスクワ』からも、娯楽や日常文化の側面に気を配っていることが分かる。映像としてはメドヴェトキン『新しいモスクワ』がある。この映画はモスクワの変化を伝えるだけでなく、メドヴェトキンの考える、新しいモスクワのヴィジョンを織り込んでいる。共産党の統制からは実験しすぎということで上映はされなかったが、いろいろな芸術家が「モスクワ改造」に期待していたことが読み取れるのである。
 モスクワ河とヴォルガ河をつなぐモスクワ=ヴォルガ運河も、一大事業として開設された。目的は、一つは首都モスクワの給水改善のため、もう一つにはモスクワ河の水位を引き上げるため、あとは水運そのものの改善であった。開設された運河だけを見ると、「征服」という側面が目立つが、運河の持つイデアや象徴体系を解きほぐしていくと、スターリン政権の「自己認識」や「政治的な言語」の中で「運河」や「水」が占める役割が、モスクワ=ヴォルガ運河建設をきっかけとして大きくなっているとも言えるのである。ナショナルな象徴としての河と人間との関りが、モスクワ=ヴォルガ運河開設以降、改めて回顧されるのである。まだ建設予定の運河も含めて、運河によって「5つの海(白海・バルト海・アゾフ海・カスピ海・黒海)」が結合され、「モスクワがこのシステムの心臓」になるのである。運河は一つの政権の成果だけでなく、体制の歴史意識や自己意識における重要性を持っていたのである。
 モスクワ=ヴォルガ運河に造られたものを見ていくと、モスクワ河の入り口や終点の駅にはスターリンの像が建てられた。また、一番大型のディーゼル船にはヨシフ・スターリン号と名が付けられた。スターリンと運河が非常に密接に絡みつけられていたのである。また、北河川駅は蒸気船の形をしているなど、海や水辺が形象化されていることが分かる。駅の他にも「船と身体」「水と健康」という名の彫像が水辺にいくつも造られたり、閘門の飾りにはコロンブスの船の装飾がされるなど、水辺に様々な意匠が凝らされていて、水辺空間が視覚的に整備された。さらに、人々に娯楽を提供し、健全な肉体を作るために、貯水池や遊泳場が設置されたり、エクスカーションやツーリズムが盛んに行われた。
 モスクワはモスクワ河を中心にして出来上がった都市であるから、モスクワ河にスターリンの都市改造デザインも規定された。『モスクワ市改造の基本計画について』(1935.7)には、「河岸を市の基本幹線とする」、河岸は「市内で最も快適な生活地域となるので、居住用・公共用の建築物しか建ててはならない」等規定されている。民衆の生活空間は破壊あるいは変形され、特権層に割り当てられ、官庁・企業の建築が建設され、位階制的な社会秩序と河岸が結合された。しかし、河岸は花崗岩の舗装等により整備され、オープンスペースとして民衆に開かれた。さらに、運河の開設とともに橋が架け替えられ、ただの橋ではなく「大通り」として市の周辺部から中心部まで続く、パレード空間が造られた。確かに全市民に開かれた水辺空間の整備と言える。
モスクワ河の向こう岸には氾濫対策のため、集水管も造られた。支流ヤウザ川も整備され、より大きな船が航行可能となった。モスクワ=ヴォルガ運河は水上交通の発達も促したのである。
 1931年には小型船の定期運航も開始され、翌年には汽船会社も設立する。河岸関係の写真や図案が新聞に頻出し、人々の身体に気を配るというお題目のもと、休息や遊びに水運を使うことが推奨された。船数や利用客数を見ると、生活・休息とモスクワ河が結びついていたということが顕著に分かる。
 スターリンの時代は「文化が高くなければいけない」、「人々に休息を与えなければいけない」というお題目だったので、各地に噴水やアトラクション、散歩道を備えた「文化と休息の公園」が造られ、ゴーリキー名称がそのモデルとなった。ゴーリキー名称は、モスクワ河沿いにレーニン丘を含めて、大きな公園として造られた。モスクワ河にもボートが浮かび、ここでは公園の一部となった。大きな沼の中にある島は舞台となり、木の緑が自然の装飾となった。河や丘、自然がうまく取り込まれながら計画された公園である。水辺と文化、身体が非常に密接に結びついていたのである。
 これらから、1930年代のモスクワは、政権も民衆も水辺空間を重要視していたことが分かった。モスクワという都市の中での水辺空間の位置づけは永遠とあって、スターリン時代はその一つのピークであったのではないだろうか。

[図1 モスクワ=ヴォルガ運河の建築物]
[図2 モスクワ=ヴォルガ運河終着駅(船の形状)]
[図3 モスクワ河遊覧案内(1990年)]
[図4 ゴーリキー公園(モスクワ河をのぞむ)]
[図5 ゴーリキー公園の冬季スポーツ]

 

   

 

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