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2006年日野プロジェクトシンポジウム
「江戸から日野−空間とくらしの変遷」

日時:2006年12月7日(木)13:30〜17:0013:00〜18:00
場所:日野市立新撰組のふるさと歴史館
共催:日野市郷土資料館
後援:浅川勉強会 日野の自然を守る会 日野みどりの推進委員会
   水と緑の日野・市民ネットワーク

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プログラム
第一部 プレゼンテーション
1. 「地形を生かした江戸東京の都市づくり」
    陣内秀信 (エコ地域デザイン研究所所長、法政大学教授)
2. 「日野の農村景観の変遷」
    根岸博之 (法政大学工学部建築学科4年)
3. 「七生村の農村および水辺のくらし」
        清水守男 (日野の昭和史を綴る会)
第二部 座談会
        石坂昌子 (石坂ファームハウス)
伊藤 稔 (豊田堀之内用水組合 組合長)
        井上平吉 (日野用水土地改良区理事)
        清水守男 (日野の昭和史を綴る会)
        コーディネイト 長野浩子(エコ地域デザイン研究所)

報告(概要)
第一部
清水守男さん (南平、日野の昭和史を綴る会)
「七生村の農村および水辺のくらし」
七生村は日野市の南部に位置し、南に多摩丘陵、北に浅川を臨む。明治22年に7つの村(百草村、落川村、三沢村、高幡村、程久保村、南平、平村)が合併しできた。昭和33年には日野町と合併し、昭和38年には日野市となった。七生村の人口は昭和30年ごろまでは江戸時代から大きな変化はなかったがその後急激に増えた。丘陵地や水田が宅地へと変っていった。当時は稲作が生活の糧で稲作に必要な水は用水入樋とあるが、浅川から堰をつくって用水を引いていた。平山用水は根田堀、中堀、中堰堀などに分かれ、低地の田を潤いし高幡橋のところで再び浅川に戻る。丘陵地からの水は悪水路といわれていた。
堰山は堰を作るのに資材を切り出した山である。堀浚いや道普請は村中総出で行ったという話も古老から聞いた。
 以前、用水はどぶ川だったが少しきれいになってきた。しかし、水田は殆どなくなった。家も茅葺の農家だったが今はコンクリートの建物が多い。農家の北側には掘抜き井戸が何所もあり水神様を祀っていたが、工場用水として地下水の汲み上げが盛んになり、その影響で枯れてきた。また飲み水として使われていたが有害物質が混入するようになり飲めなくなった。
(*そのほか、かつての農村風景の写真と現在の写真を見ながらその変化を解説していただいた。)
第二部 座談会
○伊藤 稔さん(川辺堀之内)
川辺堀之内は日野市内では農地や自然が残っているところである。明治22年に8ケ村(豊田、川辺堀之内、上田、宮、下田、万願寺、新井、石田)が合併し、明治34年に日野町と合併するまでは12年間桑田村であった。
昭和30年代初めまでは変らぬ暮らしがあったが、33年に七生村と合併したころから大きく変化しはじめた。稲作、養蚕から農業の機械化や野菜づくりも始まった。農村風景が大きく変り始めた。明治42年から大正3年まで5年間かけた豊田南のすばらしい耕地整理地も区画整理により見る影もなくなった。文化と歴史を残す区画整理ではなく行政の一方的な区画整理である。川辺堀之内も50年前に計画されたバイパス道路が出来ることになり組合施工で区画整理を実施することになった。出来るだけ水路を残したいと思っている。
水田がなくなると用水の維持管理が大変となる。水田がなくなると水路が排水路になるのが心配である。
浅川は急流で大雨がふるとすぐに洪水になるが引くのも早かった。取水口のところのやぐらがあり洪水が来ると流されあとにフカンドができる。そこにはウナギやナマズがたくさんいた。こうもり傘の柄をついて鯉やフナを捕った。
○井上平吉さん(日野本町)
 子どものころたっぴ橋のところに日野の渡しがあり多摩川亭があった。小学1年のとき日野橋にかわった。戦後、農地解放で一町歩ほどの農地を得て農家となったが区画整理による曳き家の仕事もしてきた。
昭和30年ごろ小西六による山下堀のカドミ汚染や日野ディーゼルの野地川の汚染でおコメが食べれなくなり配給米を食べなくてはならなかった。供出も時代もあったがその後減反でおコメを作るなということになり世の中変るというのが痛感される。しかし、緑と清流はなくてはならない。戦地から帰ってきたとき船から見たとき日本はなんときれいだろう思った。
○ 石坂昌子さん(倉沢)
昭和47年に稲城市から倉沢に嫁いできた。当時は日本信販の団地の造成中だった。百草団地に行くにも道がなく遠回りした。多摩市境なので行政が行き届かず開発が遅れた。遅れたからこそ今も自然が残ってよかったのかなと思う。家の前にも狭い道しかなく倉沢川が流れていた。今は6m道路ができバスも通るようになったが、倉沢川が道路の下に暗渠となり、水の音が聞こえなくなったのが寂しい。
昔はニュータウンの開発予定で盛んに土地を売るように言われた。祖父が反対したら国賊のように言われた。しかし、5,6年もするとよくぞ緑を良く守ったと褒められるようになった。世の中、時代とともに価値観が変るものだと思った。今は農業を続けて今までの中で一番幸せである。
 12月1日は“尻浸り”という行事があった。なぜお尻なのか分からないが、水難防止の行事らしい。川があるところにはあるようだ。
かつては川で障子を洗ったりオムツを洗ったりした。住宅が増えてからシャボン玉くらいの泡が浮くようになり、蛍もいなくなった。今は水もきれいになり、蛍も戻ってきた。お米もおいしい。倉沢で田んぼは2件だけになってしまった。用水は別々に引いている。
自然が残っているので、皆自然を見に来るが荒らされて困る。自然を管理している人がいることを知ってほしい。

[図1 七生村全図(昭和31年)]
[図2 七生村の人口推移]
[図3 平村絵図(天保14年)]

 

   

 

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