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2006年度国際シンポジウム
「中部イタリア都市における水辺空間の再発見
   −パルマとフォンタネッラートを事例に−」

日時:2006年4月15日(土)13:00〜17:00
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス80年館7階 大・中会議室

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「イタリアにおける建築設計と研究調査の方法上の変遷」 パルマ大学教授・建築家 アルベルト・マンブリアーニ
イタリア建築界において、建築家としても研究者としても活躍してきたマンブリアーニ教授にイタリア建築の50年間を振り返った講演を行っていただいた。
マンブリアーニ教授にとって、建築とは過去との対話から新たなものを生み出し、都市と建築の間を縫い合わせることである。このことを、自身の先生達や多くの経験を通して学んだ。教授にとっての師の一人であるカルロ・スカルパは、職人と結びついて歴史的な建築の再生を行い、詩的な空間を生み出した。ガイバッツィのアート作品は、丁寧に忍耐強く取り組み続けることの大切さを教えてくれる。また、ピラネージのヴィッラ・アドリアーナは、過去への着目という概念を形にした注目すべき作品である。その過去を見つめる姿勢は、ピラネージのエッチングやドローイングにも現れている。
教授自身、過去と向き合うことを保存や再生の仕事を通して実践してきた。パルマの一地域における再生案では、通りや通り沿いの建築に手を加えることで、人が自然に町へと入っていくことを目指した。修復の実例としては、パルマにあるベルチェートの城塞の再生計画が挙げられる。ここでは、壊れかけた城の遺跡をもとに、古代より技術発展とともに拡張されてきた城の歴史を読み取り、再生につなげている。また、フォンタネッラートの銀行を手がけた際には、町並みを構成するエクステリアに対してはガラスを付加するなどの変更しか加えない一方で、インテリアにおいては自由に自身の表現を行った。
イタリアの他の建築家の仕事に目を移せば、注目すべきものとしてレンゾ・ピアノの作品が挙げられる。彼の手によるパルマのオーディトリウムは、製粉工場をコンサートが楽しめる場に再生したすばらしい作品である。彼は、土地に応じて様々な素材を自由に用い、地域性の高い建築を作り出している。
建物の作り手には考慮すべき問題として、ランドスケープの問題がある。一つの建物を計画する際には、必ず風景計画も進行させなくてはならない。ランドスケープを扱っている建築家としては、ガベッティ&イソラが挙げられるだろう。オリベッティの住宅を含む環境に対しては、風景の中に溶け込むように、道と一体となった建築を提案している。また、彼らの実作であるアルバの裁判所は、建築が風景と一体となった作品である。
マンブリアーニ教授自身のものとしては、エジプト・カイロのピラミッド周辺における古代エジプト博物館のコンペ案がある(トニ・フォッリーナと共同)。これは、周辺環境との関係を考慮した上で、ピラミッドへと向かう動線と博物館を関係付けたことに特徴を持った提案であった。
最後に、マリオ・ボッタが手がけたパルマ都市部における公園の例を挙げる。当初ボッタはここに大きなボリュームを持った建築物を置くことを考えていたが、教授の反対などにより大きなオープンスペースを持つものへと変更になった。そこは今、都市におけるヴォイド空間として機能し、かつて柱が建っていた位置に植えられた木々が場所の持つ記憶を伝えている。
イタリア建築の50年、それが過去の記憶や環境との関わりから建築を創り出してきた歴史であることを、多様な事例から示した講演であった。

[イタリア建築1 エッチング(ピラネージ)]
[イタリア建築2 ベルチェートの城塞の修復]
[イタリア建築3 パルマのオーディトリウム(レンゾ・ピアノ)]
[イタリア建築4 オリベッティの住宅周辺への提案(ガベッティ&イソラ)]
[イタリア建築5 古代エジプト博物館コンペ案(マンブリアーニ他)]
[イタリア建築6 パルマの公園(マリオ・ボッタ)]
 

「水の都市フォンタネッラート−空間構造の歴史的形成−」 パルマ大学卒業 フェデリカ・オットーニ
水辺空間は、現代の都市計画にとって最も重要な要素の一つである。発表では、イタリア北部のパルマの近くにある街、フォンタネッラートの城砦と周辺地域との関係性についての研究を通して、計画の方法論について論じられた。
この研究の目的は、現存する灌漑施設への評価方法を見つけ、歴史を反映させた「水の美術館」として城を再生させるための計画の立案である。そこでまず城の調査を行い、それが時間とともにどのように変化したのかを、運河の経路との関係性から明らかにしていった。それを踏まえて、城の地下に「水の美術館」を計画した。
フォンタネッラートの城は、周辺地域を管理する役割を常に担っていて、その上で運河が非常に重要であった。城の建設について歴史的資料を分析し、周辺環境も含めたかつての姿を浮かび上がらせた。6世紀もの間、この地の領主であり続けたサンヴィターレ伯爵についての未公開の資料を特に調べ、領地とサンヴィターレ家の統治に関する発展の段階を追った。現在の地図の上に古い地図を重ねあわせ、水車小屋や運河、高速道路など、残存しているものと消失したもの、新たに建設されたものを地図上にプロットしていった。サンヴィターレ家の領地に関しては、地図のようなもので残していないため、文献史料を使って16世紀から1855年までの境界の変遷を追い、時代ごとに川で分けられていることがわかった。運河や水運は、サンヴィターレ家の領域を示すだけでなく、城の周りの経済活動を支えるものでもあり、またこの地域の風景を決定するものでもある。
かつては街の周囲と内側に水路が廻っていた。現在、外側の水路は暗渠化され街路になっているが、内側の水路は残っており、今でも水が流れ込んできている。
そこで、現在も残るこの水路から着想を得た城の再生計画を立てた。船だまりと城の地下の実測を行い、それを活かすように地下に「水の美術館」をつくること、そして城の内部への新しいアプローチ方法を提案した。井戸がある場所は窓もなく暗い部屋なので、会議するにも最適と考え会議室を設計した。最初の城の核となった場所は、勉強を始める場所という意味を込めて図書館を配置した。城の内部へのアプローチは、背後にある水路から船で作られた橋で内部に入るというものを計画した。
この計画は、城や周辺環境に関する歴史的考察を最大限に活用するものである。この水の美術館は、城の周りの自然環境を評価し、水路をシンボリックに利用した。これらの計画は、水という要素によって周囲の敷地と結びついている環境をうまく活用し、城の地下に隠れていた水路に光りをあてたものである。

[フォンタネッラート01 フォンタネッラートの水路網]
[フォンタネッラート02 城砦]
[フォンタネッラート03 街に流れ込む運河]
[フォンタネッラート04 城の再生案 平面図]
[フォンタネッラート05 城の再生案 内部への新たなアプローチの提案]
 

「パルマ−水の視点から読む都市形成−」 パルマ大学助手・建築家 マルコ・ベッニチェーリ
パルマは多くの都市図で印象的に描かれているように、川が中心を流れ、新しい街の左岸とローマ時代から続く古い街の右岸でできあがっている。
青銅器時代には、川に水が多くあったことがわかっている。1864年の考古学調査の発掘により、青銅器時代にこの街では水上に住宅があったということがかわっている。川の右岸から都市が発展しているが、その理由として右岸は左岸より高い位置にあり、湿気が少なかったということが挙げられる。
かつて川には橋が架かっていたが、川の氾濫により流れが左岸にずれ、その結果機能を果たさなくなった。しかし、現在でも河の水位が下がった時には、橋の遺構の一部を見ることができる。また、その後右岸に建てられた建物の地下では残された橋脚を見ることができる。川の氾濫で流れが左岸へ移動し、その後次第に左岸でも街が発展した。
また、都市の中には運河も3本流れていた。大聖堂や洗礼堂を建てるときには、石材の運搬に運河が使用された。都市の中を流れる水は神聖ものとして扱われることもあり、洗礼堂の下を通る運河の水は、洗礼堂のなかでも使われていた。それだけでなく、1800年代の絵画を見ると、人々の普段の生活と水が非常に近い関係にあったのかということが分かる。市民にとっての川の水は、洗濯用水として利用されるなど、生活と強く結びついたものであった。
川により分けられている右岸と左岸では、社会構造の違いも見ることができる。ローマ時代から発展した右岸には、大聖堂や貴族の邸宅、洗礼堂など都市の主要な建物が建ち並ぶ。一方、左岸には病院や一般庶民の住宅などが集まっている。古文書によると、右岸は豊かな場であり、それに対して左岸の人々は小さな家に住み貧しい生活をしている、という記述がされている。病院はとても古い歴史を持ち、左岸の町の性格を特徴付けていると言える。病院には、たくさんの病人や貧しい人、右岸の裕福な場所から追い出された人々が集まっていた。左岸は貧しい地区とされていたが、庶民的でとても活気がある場所でもあった。
1592年の地図をみると、川の上流には両岸にわたって宮殿が広がっている。左岸では、町と宮殿の間に広大な庭園が設けられ、さらに周囲には水が流れており、一般庶民の生活の場所と高貴な場所を分ける役目を果たしていた。
パルマの川は流れが早く、氾濫によってたびたび大きな被害を受けた。特に、左岸の町の被害は甚大で、川の氾濫との戦いは、パルマの市民にとって重大な問題であった。
このように、パルマの川は都市形成に深く関係し、川の両岸で異なった文化や価値観を形作ってきたと言える。

[パルマ1 街の中央を川が流れるパルマ]
[パルマ2 地下に残る橋脚の遺構]
[パルマ3 洗礼堂]
[パルマ4 水辺での日常風景]
 

 

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