新着情報
当研究所のコンセプト
プロジェクト
出版物のご案内
参加メンバー
インフォメーション
リンク
サイトマップ

2005年度国際シンポジウム アジアの都市再生 II
  −ホーチミン・シンガポール・広島

日時:2005年12月17日(土)13:00〜17:00
場所:法政大学市谷キャンパス80年館 大・中会議室

>top
 >home=news
 
   >rm051217

「ホーチミン・チョロン−チャイナタウンの建築群」 ホーチミン建築大学/教授 チャン・カン
本発表は、ヴェトナム南部に位置するチャイナタウンであるチョロンの形成史についてのものである。
ヴェトナムは、長い区間にわたり中国人にとって安心できる移住先であった。政治的変革、経済の低迷などからのがれるために多くの中国人がヴェトナムへと移住してきた。
ヴェトナムは中国にとって近隣諸国ということもあり、ヴェトナムへの移住は中国人にとってそれほど困難なものでなく、また気候的な条件としてモンスーンがあり、11月から4月にかけて北東の風がふき、その時期には、中国からヴェトナムへの移民が多かった。貿易に携わる中国人は北東の風が吹く11月から4月にかけてヴェトナムへ渡り、南西の風に変わる4月から11月に中国へと戻っていった。
1679年は、南ヴェトナムへの中国移民にとって重要な年であった。明朝に忠誠を誓う軍人、チェン・チャン・チュアンとヤン・イェン・チは、3000の兵と親族を率い、50の軍船で、ダナンへと向かった。清朝との外交問題を恐れたグエン皇帝は、彼らを南ヴェトナムの南端へ定住させることにした。1698年に、グエン皇帝はジアディン省を設立し南部を制圧した。この年に、現在のチョロンの場所にミンホン村ができた。この村は急速に発展し1770年代には、人口10000以上の巨大都市になり、19世紀初頭には、チョロンは東南アジア最大の商業中心地となった。1859年に、南ヴェトナムはフランスにより植民地化された。この間にも中国移民の数は増え、1940年には、南ヴェトナムには380000人の中国移民がいた。
チョロンは、東のジェネラルベイリー通り、北のチャールズトムソン通り、西側の水路、南側のタウフー運河に囲まれた位置にある。かつては、様々な水路が街の中を流れ、そこには舟が通っていた。街の風景は、ショップハウスと所々に色彩豊かな中国寺院から構成されていた。ショップハウスは、通りと細い裏道の間に挟まれるようにして連続的に建てられた。ショップハウスは間口が約4〜5m、奥行きは間口の2〜3倍と細長く、奥行きがある形態をしていた。19世紀初頭に平屋のものが現れた。木造やレンガ造りであり、屋根はタイルや瓦葺であった。1865年の消防法により藁、木材、竹などの火災の原因となるものが禁止され、掘っ立て小屋のようなものがなくなった。代わりにレンガ、瓦、タイルなどが広範囲で使われた。その後、メインストリートには、平屋のものから二階建てのものが建てられるようになった。二階建てのものが建設され始めると、これらが代表的なショップハウスとなった。一階が取引や貯蔵の空間で、二階は生活空間であった。第一次世界大戦後には三階建てのものも現れた。ショップハウスのファサードには、中国の伝統形式のものと、西洋建築の影響を受けているものがある。
チョロンのショップハウス建築は、創造性豊かなものであり、ホーチミン市の文化遺産の特徴的な建築となるにふさわしい。しかし残念ながら、今の所チョロンの建築保存に関する効果的な計画は無く、多くの価値あるショップハウスが破壊されている。これは、ホーチミン市の文化遺産にとって大きな損失である。しかし、この喪失がいつ認識され止るのかについては誰もわからない。

[図1 the my tho port]
[図2 the bird-eye photo of the old senter of cholon]
[図3 the map of saigon cholon]
[図4 the two-story houses]
[図5 windows flanking a sentral door]

 

「シンガポール川−ライフラインの再生」 シンガポール国立大学設計与環境学院/副院長 王 才強
アジアの中で、早い段階での水辺の再生が行われたシンガポール。
本発表は、過去20年間の、保存・再生のプロジェクトのプロセスについて、経験をもとに講演が行われた。
シンガポールは14世紀から貿易中心地として機能していたが、1869年にスエズ運河が開通し欧州からアジアへの海による道のりが短縮化されたことにより、シンガポールの役割がより拡大し東西の貿易中心地的な役割を果たすことになる。
1850、60年から1900年半ばにかけて非常に大きな成長を遂げ、川の利用も活発化していく。しかしそれと同時に問題も発生し、1950年頃においては、川の汚染が非常に大きな問題として報告される。しかし、このような報告が出ているにも関わらず、常に資金調達のめどがたたないために、川の清浄化、堤防の修復の問題を指摘しながらも進行していかなかった。川沿いには家、養豚場、農場、屋台が立ち並び、そのほとんどが下水・排水・汚水・食べ残しを全て川に流していたために川はゴミで溢れ、汚染は深刻化していく一方であった。
しかし1977年2月首相発言(以下)によって、急速に進展していくこととなる。
『水をキレイにするという、生活の方法を模索するべき。全ての河川の公害の解決。10年間で、川で釣りが出来るようにする。』これには、シンガポールは政府の力が強く、政府や政治指導者の決定、発言は、トップダウンで進行するという性格が背景にある。
10年で実現するために、川から全ての船を一旦取り除き、水辺の生活の復活をめざす。また水辺だけでなく、インフラ改善、現存の建築の再利用法など、その周辺のストリートなども含めた、全体的な計画が必要となった。
堤防は改修され、橋の建設、川沿いの整備をしていき、川はきれいになるが、アクティビティーの無い状態となる。また、あまりにも近代化してしまったために、「東洋の謎めいたもの」「ショップハウスなどの昔のよさ」というものが無くなり、観光客の数が激減した。そのため、様々なマスタープランが作成され、いかに川の活気を取り戻すかという事に、焦点があてられる。
1984年 副首相のスピーチ  歴史、保存に関して
『我々の歴史は非常に短く、過去から保存すべきものは非常に限られている。そういったなかで、過去の遺産をディベロッパーの破壊行為、また、政府あるいは官僚の、全て利益につながらないものは破壊しようといった行為から、我々はこれを守らなくてはならない。あらゆる場所から来た人々をひとつにするのは共通の歴史認識なので、都市の遺産の保存が、社会的な、継続、アイデンティティーと結束力の役割をはたす。』
保存計画の背景には、上記の副首相のイデオロギー的な考えや、東洋のなぞをもたらす様な、物理的な構造を保存することによって、観光客を誘致、収益を得るという考えによる、金銭的側面もあった。
再生への取り組みは、シンガポールにいくつかの観光地区(テーマ地区)を創出するもので、既存のアトラクションをまとまった特性に再統合、するというものだった。それぞれにガイドライン(高さ制限など)を設け、活性化させていった。
現在、水辺の活動として、祭り、式典、レース、レガッタが定期的に開催され、多数の地元の人々や観光客が参加しているようだ。また水辺の活動とともに、川の照明計画やプロムナードの建設など、川が活性化させるプロジェクトが進行中である。

「世界遺産と景観形成―原爆ドームと厳島神社の「水辺」を巡って」 兵庫県立大学環境人間学部/助教授 宇高雄志
本発表は世界遺産を巡る都市景観の形成が水辺との保存における景観の維持と経済原理との関係の難しさについて明らかにするものである。
ポイントとして挙げられたのが、「水と都市」、「景観のサイズ」、「水辺の経済」である。都市計画の観点から水というのは非常に扱いにくいのである。なぜなら、水と陸の管轄の違いによって、景観としてのつながりを分断されざるを得ないのである。また水辺の景観は非常に広大に及ぶのである。また、水辺というのは経済用地として重要な場所であり、保存と経済の対立は大きな問題となっている。
まず、世界遺産におけるコアゾーンとバッファゾーンの関係について説明したい。遺産保護の核となるコアゾーンがあり、そのコアゾーンを包むようにしてある一定の緩衝としての距離を保つためにバッファゾーンが決められる。
ここで具体的な世界遺産の事例を挙げ、遺産と景観の関係を示していく。では、一つ目の事例として厳島神社を挙げる。厳島神社は1996年に世界遺産として登録され、海辺の木造遺産として保存されている。海辺に建っているということもあり、自然災害の影響を大きく受けることになる。厳島神社のコアゾーンは島の山側となっていて、島全体がバッファゾーンとなっている。ここで、山のエッヂに沿って土産物屋や町家などがコアゾーンからはずされている。だが、これらの地区は伝建地区として指定される予定であるので、コアゾーンに入れることで連続した景観となるのであろう。また対岸の本土の方は以前から高級住宅地であったため、住宅団地開発や工場などにより、景観の連続性が生まれないのである。ここに、景観と経済の関係の問題がある。
次に、尾道は世界遺産登録を目指しているが、歴史的市街地の抱える新しい課題が存在している。それは、高齢化、人口減少、経済不況などの問題で、空き家の数が増加してきているのである。また、尾道はアーバンパズル(多様な土地利用のつなぎ合わせ)のような場所であって、都市計画が難しくなっているのも一つの大きな課題である。
三つ目として、原爆ドームを事例とすると、原爆ドームは非常にもろく、保存するために様々な技術が使われている。ドームをコアゾーンとし、平和記念公園の周辺(川の両岸も含む)をバッファゾーンとしている。負の遺産である原爆ドームは市民の寄付によって保存が行われ、当時は、あまり注目されていなかったが、平和記念公園のコンペで丹下健三の計画により脚光を浴びるようになったのである。これによって原爆ドームは都市の構造の中にうまく挿入されたのである。そして、原爆ドームの周りの建物の看板などに対してののファサードの規制が景観を保存しようとつくられるが、一方では、消費活動、建築というようなものは経済復興の象徴であり、それによって戦争の記憶と経済復興のコントラストが生まれていいのではないかと考える人もいるのである。つまり、歴史的遺産に登録されると様々な価値観が生まれ、歴史的遺産のグローバリゼーションという現象が存在するのではないか。
現在、日本各地で世界遺産登録を狙っているものが50を超えている。要するに世界遺産ラッシュの時代に入っていく中で、今までに述べてきたような制度をこえた市民の多様な気持ちや過去からその場所をどうやって考え景観にまで結びつけるかがこれから求められるのではないか。

[Hiroshima ABD]
[Hiroshima Atomic Bomb Dome]
[Itsukushima Shrine]
[Onomichi]
[Onomichi]
 

 

Copyright(c) Laboratory of Regional Design with Ecology, Hosei University  All rights reserved