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2005年度国際シンポジウム

日時:2005年4月13日(水)13:00〜18:00
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー スカイホール

※この研究会の内容は報告書としてまとめられました[詳細

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「水の都ミラノ:水路とロンバルディア州の景観変容に関する考察」 ミラノ工科大学 建築学部 教授 アントネッロ・ボアッティ
東京とミラノに存在する都市構造の相違点と類似点は、東京とミラノを比較することで、明らかにすることができる。東京は、沖積平野にある海に面した都市である。一方ミラノは、ロンバルディア州の中心に位置する沖積平野にある都市である。東京23区 598 km2には1500万人が住んでおり(25000人/km2)、東京首都圏の郊外は、東京23区と同数の人口を抱えている。ミラノ187.1 km2には 130万人が暮らし(7100 人/ km2)、郊外はミラノと同数の人口を抱えている。つまり、合わせて、実質的な人口密度は14000人/ km2となる。
欧州宇宙機関Envisat2004は、地球の汚染状況を測定していた、その結果、汚染状況の大きな都市として、ロンバルディア州と東京都が含まれていた。このような状態から抜け出す為には、環境と地域を中心としながら都市の発展と形成につながる諸計画を、同時に立てることが緊急の課題となる。
現代都市における水環境計画を考える際、歴史的要因を調査することは必要不可欠であった。そのため農業と都市の景観を理解するには、まずロンバルディア州の水辺について考えなくてはならなかった。19世紀クレモナのステーファノ・イアチーニ伯爵は、南ミラノの田園に感嘆し、次のように記述している:「一定期間、灌漑用の水を受け、土で人工の斜面(土手)が造られた。このシステムは最も経済的で、広い水路網とも調和している。さらに、流水、取水、分水、排水、集水、返水の複雑な導管システムでもある。この導管システムは、水門、排水渠(はいすいきょ)、接合部、排水溝、運河の橋、サイフォンによって、できるだけ広範囲に水を分配するよう作られている」
このように、ロンバルディア州とその景観には人間が自然に手を加えた成果が現れている。「ナヴィリオ」と呼ばれる人工的に造られたこの運河は、船による運航のために造られ、「ナヴィリオ・グランデ」「ナヴィリオ・マルテサーナ」は原料、農作物、また乗客の輸送を目的とした船舶の運航用として利用された。  
19世紀の船による運航システムは、ミラノを巻き込むような形態になっていた。ミラノの北側から流れ込み、円環状の城壁の東側の湾曲部において折れ曲がり、南側へ下っていくのがナヴィリオ・マルテッサ−ナである。現在の国立大学の近くにあるダルセナでは、貨物の取引を管理する役割とドォーモ全体の改修のため何世紀もの間、水運のターミナルを形成していた。
これらのナヴィリオにより、スイスからコモ湖とポー河を通ってアドリア海に到達する船による交通網が形成された。19世紀末、最初のミラノ統合調整計画では、計画図上でも町中の水路は無視され、ナヴィリオの円環構造が記されている部分は道路になり、新世紀になって数十年後(1930 年)になるとナヴィリオを暗渠化する案が登場した。そして、20世紀には、ロンバルディア州での河川の船による運航は終わってしまったのだが、水路の全体的なシステムは存続し、歴史上の証拠として、今も都市近郊に残っている。
今後のミラノの水の都計画の目標は、次の通りである。
1.汚染物質を削減しながら、存在する水路を活性化させる。
2.氾濫の問題を減らし、将来的には解決することを目的とした、河川のための遊水地のシステムを構築する。
3.新たに発見された歴史的痕跡を修復し河川とナヴィリオの価値を高める。
4.運河の水面(みなも)と噴水のある人工の湖の融合システムを実現するために、一番地表に近い水の地層である第一地層の水の汚染を改善する。
このような計画目標をかかげることで、水の都をもう一度復活させることができると考えている。

[19世紀のミラノと東京の比較]
[ミラノの都市環境計画]
[ミラノとロンバルディア州の水の歴史]
[ミラノの再生計画]
[ミラノの環境戦略計画案]

 

「ピサ:水に関する都市形態の建設とその破壊」 ピサ大学 文学部 教授 ルチア・ヌーティ
ピサの歴史はエトルスカ時代から今日までつづく為、時代ごとに都市史に関する、形成と破壊について考察していきたいと思う。ピサには中世の海洋都市時代の城壁の跡が今日も見られ、人口は10万、モンテピサーノの麓の中央に大聖堂の斜塔が見え、奥に海が広がり、海までは11キロある。現在のピサの町から海岸線までは、11キロ離れているが、昔の海岸線からピサの町は4キロ程しか離れていなかった。ピサを流れる川はアルノ川だけでなく消滅した川もあった。これは、地形が平らであった為、長い間に、川のコースが変わったことが原因と考えられている。ピサはアウゼル川とアルノ川の合流地点にあたり、周辺地帯は湿地帯で、ラグーナを形成していたといわれている。川の合流地点にあるということと、周辺がラグーナで非常に海に近いということから、ピサは川沿いにある河港都市として栄えていった。他にも中継の小さな港としてサンピエログラードとポルトピサーノがあり、そこからピサまで荷物を運送していた。  
アウゼル川の支流によって形成された地形は、当時のまま、都市の地区名として今も残っている。例えば、「イスキア」は川の堆積部分、「リボルダ」は川の蛇行、「ファルーネ」は湿地を意味していた。
ピサは古代ローマ帝国崩壊後「三つの地域」に分かれて拡大していくが、「ピサ」は中心で、その隣にある「ゴイコンタ」というのは、城門の外に発展したという意味を持つ。また、「キンチカ」というのは、南のほうにあるが、ロンバルディア州の言葉で川の流域という意味を持つ。ピサは1152年に拡大した時に、三つ別れていた「ピサ」、「ゴイコンタ」、「キンチカ」が一つにまとまって、全体を「ピサ」と呼ぶようになった。城壁は1800年まで残っていたが、それ以上、大きな都市の発展は見られなかった。この特徴的な町の構造から、中世の当時の町の中心は、北のドゥーモ周辺ではなく、川沿いの周辺が一番栄えていたと考えられる。古代ローマの中心は、ローマへと続く主要道路とアルノ川に囲まれた南の地域であった。一般的に中世の路地は狭いが、ピサの場合は、川の関係を重視した自然発生的な構造で、川に向かって路地が走っていた。今日の都市構造では、路地は残っていないが、中世の路地は、その先に船着階段があって、階段の数は市役所によって管理されていた。
ピサの都市勢力が衰退した時に、それまで都市を支えていた水運と陸路の保存状態が悪くなり、周辺が湿地帯だった為、病気も発生した。したがって水と湿地の問題を解決すべく、周辺をいかに開拓していくかということが緊急の課題となっていた。ピサを開拓するために、「フィウーメ・ア・ボッシ」という川と、水路を管理する機関を整備し、再びピサがフィレンチェのメディチにとって脅威的な都市とならないように、港の機能を近くのリボルノへ移し、ピサには大学やサントステファノ騎士団というフィレンチェのトスカーナ海軍の本部を置いて支配していった。 
アルノ川の水運で一番の問題は、川底が浅いということであった。したがって、アルノ川を行く船の船底にはボリュームがなく、非常に浅い場所では、船を川岸から引っ張って、船の航行を助けたのであった。中世には舟運を中心に川が利用されていたが、トスカーナ大公国になってからは、川の美観を求め、貴族達がアルノ川沿いに住むようになった。このように、アルノ川の水運が中世ほど使われなくなり、川沿いの美観を追求するようになると、アーチのあるカサトーリよりも一面ファサードを塗り、一つの建物のように見せるという建築が流行した。しかし現在は、昔の構造を見せる為、意図的に壁を削って、アーチを見せている。このように川の周辺の美観が非常に発展していく中で今日、川沿いの色々なイベントが行われている。   
それは、「ジョコ・デル・ポンテ」、「レガッタ」、「木枠に紙コップの中に入れたろうそくをはめて、照らし出す6月16日に行われるピサの聖人サンラニエールのお祭り」などである。
このように、ピサの古代から中世、メディチの支配までの水の都市と現代の水の都市の様子を述べたことで、いかにして、都市が形成されたか、また、どのように都市機能、施設が作られ、変化してきたか、どんな商業活動や文化的活動があったか、そして、建築が川に対してどのように造られたのかということが明らかになった。

[地形状の特徴]
[川と都市の関係]
[中世の河港都市−都市形成における川の影響]
[メディチ家支配期の都市整備]
[美観を求めて−川沿いの路地とパラッツオの変容]
 

 

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