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歴史プロジェクト第11回研究会
  「江戸の水辺空間を読む」

日時:2005年11月16日(水) 18:30〜21:00
場所:法政大学市ヶ谷校舎ボアソナードタワー25階B会議室

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「江戸の水辺と大名屋敷」  金行信輔
本発表は絵画史料や写真史料を素材として、江戸の大名屋敷と「水」との視覚的関係について考察するものである。
江戸の湾岸や隅田川沿いには、数多くの大名屋敷が存在していたが、その多くは庭園を有する下屋敷であった。まず注目したいのは、そこで庭園の借景とされた海や川に対する眺望が重視されていた点である。なかでも、松平定信の「海荘(はまやしき)」(深川、図1)は、「海面を御園の池」とみなし、松月斎という建物から「蒼海御眺望」を「専らにし」たという、いわば「水」の眺望を楽しむために特化した屋敷であった。その他の屋敷でも、「水」の眺望の確保を目的とした空間的な工夫、すなわち望楼的な建築や築山の存在が一般的であった。なお、「水」との視覚的関係を有する屋敷は、水辺の下屋敷に限られるものではなく、山の手の高台に立地した屋敷から、江戸湾の眺望が得られることもめずらしくなかった点にも留意したい。
大名屋敷における三階建ての望楼も、「水」の眺望に対する意識の産物である。三田の島原藩中屋敷は、「月波楼」という三階建てがあり、江戸湾を望めることから、中国の景勝地「洞庭湖・岳陽楼」に見立てられていた(『江戸名所図会』)。ほかにも、その北隣の松山藩中屋敷、また新発田藩下屋敷(木挽町、図2)、一橋徳川家上屋敷(一橋門内)などに同様の三階建ての望楼があったことが知られる。このように、大名屋敷の立地や建築からも、「水」との視覚的な繋がりを重視した江戸の「眺望文化」の特質を読み取ることができるのである。
一方、江戸の都市空間において、大名屋敷の建築は逆に眺望の対象となった。名所案内記には載らなかったものの、大名屋敷は首都=江戸に固有の建築であり、その堂々たる外観によって人々の注目を集める「名所」にほかならなかった。錦絵の題材となるのは例外的であったが、その少数の例を見ると、とりわけ「水」とともに描かれた構図が多いことに気づく。広重「江戸勝景」の佐賀藩上屋敷(山下門内)、彦根藩上屋敷(外桜田、図3)、延岡藩上屋敷(虎ノ門、図4)などである。建築を視覚的に引き立てる空間的な広がりをもつ水辺に立地した屋敷が、とくに景観的にすぐれた「名所」として絵画化されたといえよう。
明治に入っても、隅田川沿いには、旧土佐藩主山内家箱崎邸(旧田安徳川家下屋敷、図5)など、華族の邸宅が旧大名屋敷を継承した例は少なくない。それらは、庭園を有し、なおかつ眺望にも恵まれた屋敷であり、明治初頭に有力藩が新たに獲得したものが多い。「水」の眺望が得られることも、邸宅としての価値の一つとみなされたのであろう。

[図1 海荘 (国立国会図書館所蔵)]
[図2 新発田藩中屋敷 出典:江戸東京博物館『参勤交代図録』]
[図3 彦根藩上屋敷 出典:江戸東京博物館『参勤交代図録』]
[図4 延岡藩上屋敷 出典:江戸東京博物館『参勤交代図録』]
[図5 山内邸(旧田安徳川家下屋敷、箱崎)出典『山内家史料』]

「江戸の水の妖怪−本所七不思議をめぐって−」  横山泰子
江戸時代、本所界隈を舞台に、ちょっとした不思議な話が語られていた。そうした、人々がなぜだろうと思う事柄が七つ集められ、いつしか「本所七不思議」と呼ばれるようになった。本所という場所の特性に注目しながら、本所七不思議の成立と現代に至るまでの変容について考察する。
七つの不思議な事象をまとめて「七不思議」と呼ぶ習慣は、中世に遡る。新興都市であった江戸では、江戸初期の段階では七不思議は語られていなかった。江戸中期になると、江戸在住の知識人が自分たちの身近な場所で不思議を七つ集めはじめ、江戸の七不思議が記録されるようになった。江戸で七不思議が語られたのは、本所のほか、深川、千住、番町、麻布などであった。本所七不思議は松浦静山の随筆『甲子夜話』に書き留められ、二代目柳亭種彦の合巻『七不思議葛飾譚』にも取りあげられるなど、早くから文学の素材になり、広く知られるようになったのである。なお、七不思議の中身については、「置いてけ堀」と「片葉の葦」以外は資料によってかなり異動がある。
明治以降は文明開化の影響で、概して人々は不思議を信じなくなったが、本所七不思議は地元の伝説として生き残った。本所七不思議は地図や地誌類に記されたり、文学作品の中で古い本所一帯の淋しい雰囲気を物語る題材として使われるようになる。両国で育った芥川龍之介は、子ども時代に本所七不思議を信じていたことを、『少年』などの作品で書いている。
本所七不思議は芸能化もされた。例えば、講談の松林伯知が『本所七不思議』を口演しているほか、映画化もなされた。昭和三十二年には、加戸野五郎監督の『怪談本所七不思議』が一例である。
また、大正期に岡本綺堂が短編小説『置いてけ堀』を書いてからは、時代小説の中で本所七不思議を扱う傾向が見られるようになる。その典型的な例が、平成三年の宮部みゆきの『本所深川不思議草紙』である。この作品は劇化され、後にテレビドラマ化もされたので、本所七不思議を現代人に広く知らしめることになった。
また、近年では、「置いてけ堀」をキーワードとした町おこしが錦糸町の商店街で行われていた。本所七不思議は、地元の文化遺産として今なお大切にされている。本所七不思議が江戸の他の七不思議よりも知名度が高いのは、こうした地元意識とも関係があるのではないだろうか。

[図1 七不思議葛飾譚]
[図2 本所七不思議之内置行堀]
[図3 怪談本所七不思議DVD表紙]
[図4 本所深川不思議草子表紙]
[図5 錦糸掘公園のカッパ像(地元有志が町おこしの一環として設置したもの]
 

 

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