新着情報
当研究所のコンセプト
プロジェクト
出版物のご案内
参加メンバー
インフォメーション
リンク
サイトマップ

歴史プロジェクト第9回研究会

日時: 2005年7月7日(木)18:30〜21:00
場所: 法政大学ボアソナードタワー25階 B会議室

>top
 >home=news
 
   >rm050707

「中世の水辺都市ブリュージュ(ブルッへ)の形成
―フランドル地方の都市ネットワークの関連で―」 川原温

本発表は北西ヨーロッパのベネチアとも呼ばれる水辺都市ブリュージュがフランドル地方の都市ネットワークを利用しながらどのように形成したかを明らかにするものである。
ブリュージュが水辺都市と呼ばれるのは、運河・水路が都市内に張り巡らされているだけでなく、北海と結ぶ運河網による港町として発展したからである。現在は海岸線から15キロ内陸に位置しているブリュージュも古代ローマ時代には海岸に面していたといわれている。当時にはすでに定住集落があり港町的機能を果たしていたと考えられる。ところがブリュージュが国際商業都市となる中性から近世にかけて、直接北海にはでられない地理的条件になった。そのためにダンケルクの第3海進によって12世紀にできたズウェイン湾とのあいだに、もともとあった川を運河として北海とつなげた。これによりブリュージュは準港町のような都市となる。このプロセスの中でダムという港が12〜3世紀にかけて建設され、次いで13世紀後半には中継地としてスライスという都市が建設される。これらの都市はブリュージュの出先機関として発展し、これらによって海とのつながりを確保することによってブリュージュは国際商業都市として成立したのである。ダムの港からブリュージュの北門までこれらの都市を通過しながら商品を流通させたのである。
都市内部では、13世紀以降レイエ川を都市内に引き込み貯水池にためてから北へむけて流れを作り、本来の川流を利用しつつそれを迂回させるルートを作って都市内水路ネットワークを形成した。もっとも古い都市の核であるブルクは南と北のレイエ川を利用した水路の間に形成している。また第1の市壁(1089建設)に沿って水路ができており、このことから11世紀には人工的な運河が形成されたと考えられる。北門から入った船は都市の中心の地下に運河の上に建てられた建物・水の倉庫まで運ばれ、そこで直接荷揚げをされた。このように流通する商品を都市に取り込む設備は13世紀のおわりには整備されて、水辺都市として完成した。ブリュージュは外港を支配しながら自らも港町として機能する一方、ヘント・オステンドにむけた運河によって内陸とも結びつき、都市のネットワークを張り巡らしていた。
ブリュージュは意図的に水路を形成することによって13世紀にスタートする国際商業都市としての位置を確かにしていったのである。16世紀にズウェイン湾が浅くなり、大型ガレー船が入れなくなってから、アントウェルペンにその地位が奪われてもブリュージュの都市としての位置づけは変わらなかった。17世紀には、西にむけて西インド会社の取引がおこなわれていたオステンドにつながる新たな運河の存在があったために、ブリュージュは水辺都市としての機能を存続させたのである。20世紀はじめにも新たな運河網が建設される。オステンドとスライスの間の漁村であったゼーブルッへが石油化学工業の地域となり、港が建設される。こことブリュージュとをつなげる運河である。このようにブリュージュは現在にいたるまで海との、そして水とのかかわりを持ちながら発展してきている。そして、水とのかかわりこそがブリュージュの都市的個性を決定づけてきているのである。

[フランドル地方の都市と水路]
[ブルッへと外港スライス]
[中世ブルッへの発展プロセス]
[ブルッへ景観図「1562」]
[水の倉庫とクレーン]

 

「江戸の広場と民衆世界」 小林信也
本発表は江戸の広場に展開した床店葭簀張営業地の、都市社会における存在意義を探るものである。
本発表で対象とした江戸庶民の居住地である町方の空間構成は以下のようである。道路を軸として展開する敷地集合を町という単位で呼ぶ。この町が1600程度集まったもので江戸の町人地は構成されていた。ひとつひとつの町は20から30の町屋敷と呼ばれる短冊形の敷地で構成される。町屋敷そのものの空間構成は、道路に面する場所には大きな区画がとられ、敷地の奥には通路を挟んで、狭い敷地がいくつも区画されるという特徴をもつ。道路に面する区画を表店、敷地奥の区画を裏店と呼ぶ。店とは賃貸物件を指す言葉である。
町方に住む庶民とはどのような人々だったのであろうか。商売が順調な庶民は裏店に住まい、表店で商売をする。しかし表店で営業できない庶民は裏店に住まいながら、やむをえず振り売りなどに出るしかなかった。裏店に住まうその日稼ぎの人々は、江戸の町人約50万人のうち実に約29万人に達した。それ以外の20万人のうちにも奉公人としておおきな店や大名屋敷に住み込みで勤めるものも算入されているので、それを除くと表店で商いをおこなう地主や家主などの富裕層は少数であったと思われる。つまり、江戸に暮らす庶民の大多数がその日稼ぎで裏店住まいだったのである。これら大多数の民衆、すなわち裏店住まいの人々の生活は町内では完結しえなかった。商人も職人も町外に出なければその生業を成立させえない。だからこそ、江戸の民衆世界を理解するために町会社会・空間を研究する意義があるといえよう。江戸の広場はまさしく、ここでいう町外社会である。
これまで江戸の広場を日常的で閉鎖的なコミュニティー、すなわち町内社会に対する非日常的で自由な盛り場としてとらえる研究が多く見られる。しかし、すべての広場を怪しく特殊な社会としてとらえるべきではない。民衆が生活のために床店を張り、売買をおこなう健全で日常的な生活空間としての広場の意味を認識することが必要である。ひとつひとつの床店は零細な資本で品揃えはわずかでも、それが集合し、市場化することで大きな集客力をもった。床店葭簀張営業地とは、表店には店を出せない裏店住まいの庶民が共同でつくりあげた市場という性格をもっていたといえる。
江戸・明治をとおして、非私有地である広場を私的営業の場として利用することへの規制はおこなわれてはきたものの、そのたびに復活をとげている。たとえば天保改革で取り払われた床店ものちに嘆願により復活しているし、明治になって非私有地の露店が撤去されたときには、主に大名屋敷などの跡地に移転しながら営業を存続させた。そして街灯がつくようにになると夜店が開かれるようになる。戦後の闇市もまたこうした民衆的市場の流れの中に位置づけられるであろう。
広場における床店葭簀張営業は、江戸の都市民衆が主体となって産み出し、それに依存して日々の生活を送っているという意味で、都市民衆世界の基本的な構成要素として重要な社会=空間であった。これまで、江戸の広場について、都市の悪所あるいは盛り場といったような特殊な社会であるとの評価がなされがちであったが、本発表では都市の大多数を占める一般庶民の重要な日常的な生活領域のひとつとしての広場の意味を明らかにした。

[二葉町周辺図]
[「烏森稲荷社初午祭御旅出の図」]
[二葉町地先堀端の床店]
[柳原堤]
[神田岩本町古着市場の図]
 

 

Copyright(c) Laboratory of Regional Design with Ecology, Hosei University  All rights reserved