新着情報
当研究所のコンセプト
プロジェクト
出版物のご案内
参加メンバー
インフォメーション
リンク
サイトマップ

歴史プロジェクト 第4回研究会

日時:2004年12月15日(水) 18:00〜20:30
場所:法政大学 市ヶ谷校舎80年館7階大会議室

>top
 >home=news
 
   >rm041215

『ナロウボートの旅 イギリス運河にみる水辺の復活』 竹沢えり子
イギリスでは17世紀ころから、物資輸送のために河川の整備が始まり、その後川と川をつなぐ運河が作られた。産業革命以降には運河マニアという言葉が生まれるほど、次々と運河が建設されていき、街の発展を形作ってきた。その運河を媒体に、現在の都市再生を行ってきたイギリスの事例を参考に、水路による都市再生の意味を考える。
ナロウボートとはナロウカナル(運河)にあるロック(水門)の幅により決まった幅2.1mのボートである。現在イギリスにある航行可能な運河は総距離約3220km。整備は今も進んでいる。高低差のあるところにはロックが設けられ、水位の調節により進んでゆく。動力は馬かロバ、人間であった。運河沿いには馬用の道があり、現在ではトゥパスとよばれる散歩道になっている。当時、時速は3〜5km、エンジンに変わった現在も時速8km程度。
1810年にできたロンドンからブリストルまでをつなぐケネット&エイボン運河は全長135km104ロックにおよぶ。この運河は古くからのマーケットタウンをつなぐように建設され、農産物、産業物資、馬車では運べない重いものや壊れ物などを主に輸送し、通行料は重量で決められていた。1841年グレートウェスタン鉄道が完成すると、運河は衰退の道をたどることになる。スピードや水の供給など様々な問題を抱えた運河は1852年、すべての事業をグレートウェスタン鉄道に売り渡すことになる。
1948年すべての運河が国有化され、完全閉鎖の危機にさらされるが、1955年、ボランティアによる復旧の動きが始まった。同時期の日本は、運河の埋め立てや運河上の高速道路建設が始まった頃である。1962年にはケネット&エイボン運河トラストが組織され、1990年にプレジャー施設として再オープンに至った。60年代はボランティア活動が盛んになった時期でもあり、1968年に作られた組織BWW(ブリティッシュ・ウォーター・ウェイ)との両者の活動が相まって1978年にはトゥパスが公共に開放され、1983年には廃墟群となっていたマンチェスターのキャッスルフィールドがイギリス初の都市遺跡公園となってよみがえった。
ナロウボートの旅の魅力は、のどかな風景、徒歩の速度、スリルと冒険心、ボートや橋の美しいデザインであり、また自然回復力、高度であるが人間の手で担える技術、馬が担えるエネルギーであると考える。
主要都市を結ぶすでに出来上がったインフラ=運河を、コミュニケーションネットワークとして捉えなおすことで可能性は広がるだろう。

[運河と河川]
[トゥパス]
[バートンスウィング橋]
[高低差70mを登るロック]
[キャッスルフィールド]
撮影:石室英介

 

「漁業町の形成史 〜羽田・大森〜」 難波匡甫
漁師町の都市構造と権利関係(意識)との関わりというテーマで小柴・生麦・浦安・本芝・品川・大森・羽田の7事例を紹介しながら、漁師町特有の都市構造、都市構造からみえる漁師町の土地所有意識のあり方、漁業形態(権利)と都市形成の関係の3点について見た。
先ず、江戸期の漁師町について説明する。江戸期の漁師町には明確なヒエラルキーが存在した。金杉・本芝を頂点とし、品川、羽田、生麦を含む「御菜八ヶ浦」、佃島など3ヶ所ある「御菜浦」。この11ヶ所が、幕府により権力を与えられた漁師町。浦安を含む「立浦」は、漁業の許可を受けた半農半漁の村、大森を含む「磯付き村」に関しては、漁業を原則的に禁止された海辺の農村である。漁場にも明確な認識があった。村の境界線を海上にも伸ばして漁場を区切った。磯と沖の境界については、それぞれの土地による決め方が存在した。
大森は磯付き村であったために漁業ができなかったが、海苔産業に活路を見出し一大産地へと成長した。ベカ船(海苔採取用の小さな船)を通すために掘割りを残して新田開発をしたことで、広範囲にわたり海苔産業が行えた。魚を獲る漁師町とは、地籍や家の構成も異なる。
羽田は中世の頃、半農半漁の農村であった。そのうちの一部が江戸期に漁師町として特権を得た。漁業権とは、ある特定のエリアに与えられた特権であるために、人口が増加しても海岸線に沿って拡大していくわけにはいかず、海を埋め立てて対応してきたと、地図資料や昭和期の絵画から推測できる。メイン通りから護岸まで路地を延ばし、護岸の先に船着場を作り、小屋を建ててきた。人口が増加すると、護岸を超えて市街化してきたために、その都度護岸を作り直し、水害対策を施してきた。すると、かつての護岸沿いが新たなメイン通りを担ってきた。その繰り返しをしながら、埋立て拡大をしてきたのではないかと推測できる。この水辺に並行するメイン通りと垂直に交わる路地の関係が、漁師町特有の都市構造として読み取れるのではないかと考える。
この都市構造は権利意識からも読み取れる。江戸の頃から村の境界線を海上にも伸ばして漁場を区切ってきたので、境界は水辺に垂直になる。町会の境界線も同様に水辺に垂直にひかれている。これらのことから、前述のメイン通りと路地の関係は、権利意識によるものであるとも言える。
これらのことから、羽田で見られた発展形態が漁師町特有の都市形成における1つのタイプであると言えるだろう。

[現在の漁師町と漁業権のヒエラルキー]
[航空写真・大森(昭和35年)]
[航空写真・羽田(昭和35年)]
[町会図と江戸時代の漁場利用図]
 

 

Copyright(c) Laboratory of Regional Design with Ecology, Hosei University  All rights reserved