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歴史プロジェクト第2回研究会

日時:2004年7月20日 17:00〜19:30
場所:法政大学 市ヶ谷ボアソナード・タワー 19階 D会議室

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『荒れ地に築かれた近代港町・門司
〜中世と近世が潜む水辺都市形成の仕組み 岡本哲志
近代になって、船の機能が飛躍的に向上し、それに従って港湾機能や舟運の航路は大きく変わり、港町は激変した。近世に繁栄した港町は次々と衰退していったが、近代港湾の適地となったのは、中世以来の歴史を持つ場所が多い。今回の発表では、港町・門司において、近代の都市建設で、いかに近世以前の考え方や特色、都市の仕組みが継承されたか、空間や機能面での連続性を明らかにした。
 門司は、中世において都(京都)と大宰府を結ぶ重要な港町であった。近世になると、全ての港湾機能は小倉に移り、塩田や農耕、漁業を中心とする寒村となってしまった。しかし、本州と結ぶ舟運の要所であり続けた。
近世以前の港湾都市は、河口付近に立地していた。そして、背後の丘陵地には住宅地の迷宮的空間が展開し、港と居住地を結ぶ垂直な軸が重要視された。その後、近世港町が再整備された頃に、海岸線と平行な道路ができ、重要な道となっていく。この方法で、近代港町の門司は短期間に形成された。
 産業構造にも近代以前との繋がりを見ることができる。甲宗八幡神社下、現在の第二船溜も、鉄道敷設前は港町としての中心が置かれていたのではないかと思われる。
花街の立地は、各時代の場所の特性を描き出している。かつて港町の中心であった塩田の跡地に塩竃遊郭はできた。塩田を取り巻く掘割の内側にできる遊郭というのは、中世港町にみられる立地条件である。塩浜と内陸の境を流れる水路沿いに立地する馬場遊郭は、明確な結界をもって内と外を分ける、近世城下町における花街の特徴である。そして、錦町の花街は街の中にありながら独立性を高める建築的工夫が見られ、近代都市の路地に沿ってつくられた岡場所と呼ばれた花街の空間構造によく似ていて、遊興空間の変遷からも、門司の港町における中世、近世との連続性が見いだせる。
港町の商業空間もまた、近世的な都市開発のプロセスを踏襲している。海岸線沿いの港湾施設は、海岸と並行の軸を作り出し、職と住の場を分けており、近世城下町形成の理念を継承しているといえる。そこでは、海側に商船や銀行の近代建築が建ち並ぶバンドと、山側に生活の場である栄町銀天街という商店街の2本の通りが、門司の近世と近代を隣り合わせにしながら、ひとつの都市軸を作り出しているのである。
このように、近代の港町の都市建設を、近世、さらに中世との連続性を通して明らかにすることは、21世紀の水辺と都市の関係性を考えるうえで重要な視点であるといえるだろう。

[近代門司]
[中世門司]
[馬場遊郭]
[門司港]
[バンドを形成した金融街と一本内側の商店街]

 

『水の都バンコクの近代化
〜近代都市空間と水環境への適応手法 1890〜1930 岩城考信
18世紀後半以降、東南アジアの「港市」として繁栄していたタイ・バンコク。水路を軸に形成されてきたその「水の都」の都市空間が、近代に行なわれた道路を軸とする都市開発でいかに変容したかを、今回の発表で既存の都市空間、及び水環境との関係性から明らかにした。
バンコクは地形勾配のほとんどない平坦な低湿地に立地する。それゆえ潮汐の影響を強く受け、水路の水位は日々刻々と変化する。そのため、水環境に適応した高床式住居や浮家という建築形態が生み出され、交通や輸送については、水路を利用した舟運が主だった。しかし、19世紀後半からバーンラックに西洋人街が形成され始めると、西洋人はラタナコシンと西洋人街、貿易港を結ぶ道路建設を王に嘆願した。これにより、既存の道路整備といくつかの本格的な道路建設が行なわれた。
また道路建設は、郊外住宅地開発地においても行なわれた。19世紀末に人口が増加し、既成市街地の高密化と、それに伴う住宅不足と住環境の悪化を招いたことにより、郊外住宅地が建設された。また、土地所有権の確立と土地の資産価値の上昇は、民間ディベロッパーの郊外住宅地開発を促進した。そこでは、直線的な道路建設、グリッド状の街区構成、街路樹の植樹、上水道の完備といった、西洋諸国や海峡植民地で行なわれていた近代都市計画の考え方を利用した。しかし、郊外は水捌けの悪い低湿地であったため、既存市街地以上に日々の潮汐、雨季の洪水にいかに対応するかが強く意識された。その結果、道路の建設は、水路を並行に開削し、その残土を盛り上げることにより行なわれた。
19世紀末から20世紀初頭にかけて新王宮が建設されたドゥシットでも、同じように水路とともに道路も建設する都市開発が行なわれた。排水・下水路としての水路開削は、道路建設の利用だけでなく、王族の宮殿と公共空間を分ける、境界としての意味も持っていた。王宮内には、チャオプラヤー川からの水を潮汐により循環させた池が造られ、親水性の高い、自然豊かな居住空間が生み出された。しかし、宮殿はそれまでの高床式住宅から、造園の残土で盛土した所に建てられた西洋風の宮殿へと変化していった。
バーンラックでの都市開発では、道路と並行して建設した水路の有無で都市空間は大きく異なった。良い居住環境を望んだ裕福な人々は、直線的な道路とグリッド状の街区開発の中に、水路を豊かに組み入れられた都市空間に惹きつけられ、潮汐庭園や排水・下水道を完備した邸宅は水路に面して立地したのである。このように、近代の郊外都市開発でも、道路とともに水路が開削され、水環境へ適応しながら水とともに住むという姿は受け継がれてきたのである。

[バンコク全体図]
[1870年代までの道路建設]
[ドゥシットの潮汐庭園を持つ宮殿]
[バーンラックの都市開発]
[雨季と乾季]

 

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